解説「菩薩の生き方」第二十回(1)

2017年4月15日
解説「菩薩の生き方」第二十回
はい。今日は『菩薩の生き方』、第五章の「正智の守護」の最初ですね。
はい。これはまあ、いつも言うように、素晴らしい菩薩道の聖典である『入菩提行論』の解説書ね。わたしが解説したものですけども、そのさらに勉強っていうかな、解説っていうことになります。
第五章 正智の守護
【本文】
戒を守ろうと願う人は、努めて心を守らねばならぬ。動きやすい心を守らないでは、戒を守ることはできない。
発情した野生の象がこの世で惹き起こす災厄は、放任された心の象が無間地獄等で引き起こす災厄に遥かに及ばない。
しかし心の象が念(スムリティ)の縄で全く縛られれば、一切の危難は去り、すべての安穏が得られる。
【解説】
第五章は、「正智を守ること」についての章ですね。
さあ、どんどん深い部分に入っていきますね。この章も非常にすばらしい内容です。
正智とは、念(スムリティ、サティ)という言葉とセットで使われることが多いです。二つあわせて念正智とか正念正智といったりしますね。
この念正智とは、仏教の中核をなすといってもいいくらい、重要な内容なのですが、原始仏典においては大雑把にその概要が語られているだけです。そしてそのより実践的な教えとしては、この入菩提行論の第五章は、すばらしい価値があると思います。
仏教で念という言葉は、いくつかの意味があります。
一.記憶すること
二.四念処(身体・感覚・心・すべての存在に対して、不浄、苦、無常、無我などの観察をし続ける)
三.今この瞬間に常に覚醒し目覚め、自己観察すること
そしてこれらは分けられて説明される学術書なども多いですが、私はこれらは実際は分けられないと考えています。
一.最初の記憶という意味ですが、この念の修習においては、その前に最初に、正しい教えの記憶が必要であると思います。
そしてそれは理想としては、頭で記憶するのではなく、心にインプットするような記憶の仕方が必要です。
つまり受験生がテストのために一夜漬けで記憶するような記憶の仕方ではなく、たとえば好きなアーティストの歌の歌詞を自然にすべて覚えているような記憶の仕方が重要なのです。
それにはまず経典などをしっかりと何度も繰り返し読むことも必要ですし、その意味を考えたり、自分に当てはめてみたりすることも重要ですね。
はい。「正智の守護」ね。
正智っていうのはここに書かれている、まず「念」っていう言葉が仏教の重要な言葉としてあって、これはサンスクリット語でスムリティ、パーリ語でサティっていうやつだね。で、これが英語に訳されて「マインドフルネス」っていう言葉になります。マインドフルネスっていう言葉は昔から仏教の「念」の訳語としてあったわけだけど、最近スピリチュアル的な、まあ、もしくは、そうですね、仏教的な分野で、一種のブームになってるよね。マインドフルネス瞑想とか、本屋に行ってもマインドフルネスっていう言葉がいっぱい並んでると。ただ、いつも同じこと言ってるけど、そこにダルマがないと、それはあまり意味のない、もしくはポイントを外したものになってしまう。まあ、もしくはそれ以前にそのマインドフルネスっていう言葉を、言葉遊びで、まあ、とても誤解してる場合もあるかもしれない。
でもその大もとの意味っていうのは――これから説明していく内容になるわけですが――それは、ここでもよく触れられている「念正智」――『入菩提行論』の教えの核がこの念正智といってもいいんだけど、この「念正智」であると。で、それは――ここで「正智の守護」っていうタイトルになってるわけですが、簡潔に言うと、念っていうのは、これからちょっと見ていくように、実際にはちょっと複雑な意味があるんだけど、ある一つの心の正しい状態っていうかな、それを持ち続けることです。で、それを、なんていうか、はっきりとした意識で、警備っていうと変ですけども、つまり、それがおかしくなってないかなと、警備し続けるっていうかな。「わたしの念は保たれているだろうか?」――これをはっきりと自己観察し、で、もしずれそうになったらちゃんとバッと戻すと。この働きを正智と言ってるわけですね。正智。
で、これもよく、現代的に「気付き」とかいう言い方で訳されたりするわけだけど、非常にこれ、あいまいですよね(笑)。気付きって言うとなんか、「ああ、なんか気付いた」って感じだけど(笑)、じゃなくて、自分がもし心が変になってたらそれにちゃんと気付くと。そういう意味での気付きね。そういう意味で心を常に――つまり、なんていうかな、観察者を自分の中に置いて、自分がどういう状態に、どんな変な状態になるのも見逃さないと。自分のエゴの欺瞞を見逃さないと。この、常に目覚めている――つまり警備っていうのは、例えば交代で警備したりすることもあるわけだけど、寝てちゃ駄目ですよね。寝てるうちになんか盗まれちゃうと。寝てるうちに大事件が起きたら困ってしまうと。だから、徹底的にクリアな意識で自分の心の状態を観察し続けると。これが正智ね。
はい。で、それが念という言葉とセットで、つまり、じゃあ何を正智するのかと。それは念であると。念が正しく保たれてるかを常にチェックし続けるんだと。じゃあ念とは何か。つまりほんとの意味でのマインドフルネス、サティ、スムリティっていうのは何かっていうのは、それは実際には複雑なものなんだけど、大ざっぱにここで、ちょっとあるまとめ方でまとめるとね、この三つに分けられますよと。しかし、これらは実際には分けられていない。実際にはそれぞれが一つともいえるし、影響を与え合ってるともいえる。
はい。で、その一番目の意味が記憶であると。まあこれは実際に辞書的な意味としては、このスムリティっていう意味は記憶っていう意味なんです。つまり、ほんとに普通にわれわれが使うところの「記憶」っていう意味ね。だからまさに記憶なんだね、一番最初の意味はね。だからその記憶すべき、なんていうか、正しい情報っていうか、それがないとまずこの念の世界が始まらない。
はい。で、それが、ここに書いてあるように、
「この念の修習においては、その前に最初に、正しい教えの記憶が必要であると思います。そしてそれは理想としては、頭で記憶するのではなく、心にインプットするような記憶の仕方が必要です。つまり受験生がテストのために一夜漬けで記憶するような記憶の仕方ではなく、たとえば好きなアーティストの歌の歌詞を自然にすべて覚えているような記憶の仕方が重要なのです。それにはまず経典などをしっかりと何度も繰り返し読むことも必要ですし、その意味を考えたり、自分に当てはめてみたりすることも重要ですね。」
と。はい、これは分かりますね。つまりちょっと頭が良ければ、記憶力が良ければ、ちょっと、受験的な感じで、一夜漬けで、ガーッとある程度記憶することはできると。でもそれはほんとに大脳の一部の問題なので、われわれの深い心には影響を与えないし、あるいは当然来世にも持っていけないよね。あるいは普段の、なんていうかな、日々の大事なときにも出てこないと。じゃなくて心にインプットする。それがまあ一つの例として、ここに「好きなアーティストの歌詞を自然に覚えているような」って書いてあるけど、それはいろんな例でありますよね。例えば仕事でも、一つの仕事に徹底的に従事してる場合、それに関する知識ってパパパーッて出てきますよね。例えば駅に行って駅員さんに、どこどこに行くには――例えば「八王子に一番早く行くにはどう行けばいいんでしょうかね?」と。「ああ、じゃあそれはこの線を利用してあそこで乗り換えてこうしたらいいよ」――パッと出てくると。で、それはその駅員さんが「おれは駅員だ」と思って、徹夜で勉強してるわけじゃないよね。毎日毎日それに携わり、そのことを仕事として行ない、ひたすら繰り返してることでもう当たり前のように自分の中にデータが蓄積されてると。
あるいはもちろん趣味とかでもそうですけどね。例えば野球がものすごく好きな人がいたとして――わたしも野球好きだったけどさ、野球ほんとに好きな人って、データにすごく細かかったりするよね。「あのピッチャーが初めて完投したのいつだっけ?」「あ、それは何年の何月の七・六の試合!」とかね(笑)。なんでそこまで覚えてんのっていう(笑)。つまりそういう感じで、ものすごく心を入れて学んだことや、あるいは遊んだこと、趣味として遊んだこと、あるいは仕事として頑張ったこと、あるいは好きな音楽とか、その他修習したことっていうのは、心に深く根付いてると。で、ダルマもそれくらい根付かせなきゃいけない。まずはね。
で、もちろんそれはどうすればいいのかっていうのは、まずはもちろん地道なやり方も必要です。つまりひたすら教学すると。つまり、それが一回二回だとただの記憶だけど、ひたすら――これも実際にね、皆さん、例えば「いや、わたしは同じこの本を十回ぐらい読んだけど全然入ってません」っていう人いるかもしれないけど、入っています。これは皆さんが深い瞑想に入れば分かります。わたしもよく昔そういう経験したけどね。深い瞑想に入ると、そんなに根付いてないと思ってた本とか、あと詞章とかが、ブワーッて出てくるんだね。だからそれが皆さんのバルドを救ってくれると。
前にも言ったかもしれないけどさ、例えば仏典とか、まあわたし昔、仏典をバーッてよく読んでたことがあって。仏典って、同じようなリズムで繰り返されてることが多いんだね。皆さんも例えば、そうだな、ここでも原始仏典でそういうタイプのやつやったことあったかもしれない。例えば『預流相応』とかね。ああいうのもそうかもしれないけど、例えば「サーヴァッティのジェータ林にあるアナータピンディカの大庭園において、世尊はこうお説きになった」と。「ビックたちよ」「世尊よ」――で、パーッとある一定の教えが説かれて。例えば、そうだな、『預流相応』だったらその預流の教え、つまり「ブッダに帰依し、ダルマに帰依し、サンガに帰依し、戒を守り」みたいな、同じパターンがあると。で、次の教えになったら今度は、場所は同じサーヴァッティ。出てくる弟子がちょっと違うだけで(笑)、で、また同じパターンが繰り返されると。教えもちょっとだけ違ったりして。こういうのを繰り返すわけだね。で、最初読んでるうちは、「またこれ?」みたいな感じで(笑)、「省略すればいいのに」って感じで読んでるわけだけど、でもバルドに入って深い意識に入ると、その繰り返されるリズムがバーッて出てきたりするんだね。「あ、このためか」と。つまり、例えばそこでサーヴァッティとかジェータ林っていうのはあんまり意味ないんだけど、意味ないんだけど、それが一つの取っ掛かりになって次の教えがバーッて出てきたりする。これが心に深く根付いてる場合――だからそういったかたちで計算されてるんでしょうね。計算っていうか、そういう狙いもあるんだと思う。
昔はさ、いつも言ってるように、お釈迦様の時代は特に、教えを本ではなくて人から実際に言葉として聞いて、それを記憶して、で、ひたすらその同じことを頭の中で繰り返すと。こういうやり方だったんだね。だから繰り返しやすいようにもなってたんでしょうけどね。で、それによってより深く心に根付いていくと。
はい、だから現代的にも、いろんな教えがあるけども、それをひたすら――同じ本をいっぱい読む、何回も読むのでもいいし、あるいはいろんな本を読むのでもいいけど、読んでるうちに、そこにあるデータが皆さんの中に、皆さんの気付かないかたちでガーッて深く根付いていきます。
で、もちろんそれプラス、余裕が出てきたら、考えると。考えるっていうのも、教学しながら一つ一つ考える必要はないんだけど、教学してるうちにちょっといろいろ思いが出てきたらね、あ、そうだ、ここに書いてあるようにわたしも昔こうだったと。だからこのように考えようっていうのが出てきたら、まあ、ちょっとそれについて考えてみるとか、あるいはそうだな、よく経行のときとかも思索にはいいときですけどね。歩いてるとやはり、なんていうかな、頭がクリアな感じで、思索が回りやすくなると。変なこと考えちゃ駄目だけどね(笑)。もし歩いてるときにいい考えっていうか、教えに対して何か思いがわいてきたら、それについてまた深く考えてみるとかね。それによってより皆さんの心にそれが根付きやすくなる。
はい。それからまあ喜覚支っていうか、喜びの修行もやはり大事だね。喜びの修行っていうのは、さっき言ったように――さっき挙げたいくつかの例っていうのは、例えば野球が好きな人、あるいは好きな歌手の歌その他っていうのは、つまり喜びを持って修習してるからやっぱり根付きやすいんだね。うん。「あ、この歌手の新しい曲が出た」と。「ああ、やっぱりこれはいいよな、いいよな、いいよな」ってずーっと繰り返してるから、やっぱり根付きやすいですよね。あるいは野球が好きだから、もうほんとに心からそれに集中すると。
皆さん、逆にさ、学校の勉強なんて全然覚えてないでしょ(笑)。受験のために一生懸命やったかもしれないけど、やっぱり喜んではやってないからね。まあ、もちろん喜んでやってた場合は残ってるかもしれない。歴史が好きだったとかね、そういう場合は、それに関するものは残ってるかもしれないけど。
はい、だから同じように――もちろん皆さんさ、こうして、一生懸命人生の多くを修行にあててるわけだから、もともと修行っていうか、そのような真理の道は好きなはずです。好きっていうか(笑)、好きって変だけど(笑)、真理の道に価値を見出してると。で、その思いを、いつも言うように、初心に返って、喜びを持ってやるんだね。で、これを仏教では喜覚支っていうんだね、喜覚支ね。喜びの覚支。覚支っていうのは覚醒の支え――覚醒の覚に支えって書いて覚支ですけど。覚醒の支えとしての修行の一つ、喜覚支と。
つまり喜びを持って――これ、もうちょっと細かく言うと、まず修行する前に喜ぶと。さて教学しようかと。「おれはほんとに素晴らしい真理に出合った」と。「これから今これを学べるっていうのはほんとに素晴らしいな!」と。「ほんとに今から教学できるなんて、なんて天国みたいだ!」と。ね(笑)。そう思いながらパッとやると。で、読みながら、もちろん、いちいちずーっと考える必要はないけども、その思いを込めてね、「ああ、本当に素晴らしいな、素晴らしいな」と思いながら読むと。で、終わってから「ああ、素晴らしかった!」と(笑)。
(一同笑)
「またぜひ教学したいもんだ」と。ね(笑)。「また今度いつ教学しよう?」と。「あ、今度はこういう時間が空いてるから、あのときにちょっとでも教学しよう」とかね。もちろん教学だけじゃないけどね。修行も全部そういうかたちで、喜びを持って行なうと。そうするとそのデータは根付きやすくなるよね。
これはさ、そうじゃない、自分の中に怠け心や、あるいは悪い心とかがまだある場合、その場合、今言ったような喜覚支できないことがあるよね。自然には出てこないと。それは無理やりやってかまいません。それは偽善ではない。偽善ではなくて、自分の心を変えるための訓練なんだね。例えば、「今日教学したくないな」と。「もうほんとに疲れていやだよ」というときも、無理やり、「ああ、うれしい、うれしい、もうほんとにうれしいな!」って心に修習しながらやると。人間の心って、結構馬鹿なんです。やってるうちにちょっとうれしくなってきます。なんかほんとにうれしくなってきちゃって。で、馬鹿だから、ハッと思い返して、「あれ? さっき怠けたいと思ってた」と思って、まあ馬鹿な人はね、また怠け心にチェンジするんだけど、そうじゃなくて、「あれ? 錯覚でなんかうれしい気持ちがしてきた」――これはオッケーです。そこを増大させてください。人間の心ってほんとにそんなもんです。良いことも悪いこともね。
例えばある人のことがすごく憎らしいと思ったと。でもこれも錯覚です。いつのまにか、なんとなく憎らしい感じがしてきて、あるいは人からいろいろ言われてて、「ほんとにあの人嫌だな」っていうデータを入れられて、最初そう思ってなかったんだけど、聞かされてるうちにだんだんその人がだんだん嫌になってくる。でも、こんなものもただの表面的なデータです。だからいつも言うように、それだったらわれわれは良い方向に、わたしたちの心を意識的にどんどん向けさせた方がいい。
だから、ちょっと話を戻すけども、喜びを持って教学をする。あるいは喜びを持って修行をすると。これを繰り返すことで、心にね、しっかりとその教えが根付きやすくなる。だから基本的にはもちろん教学、あるいはいろんな意味でのデータの入れ替えね、詞章もそうだし、あるいは日々、例えばいろんなかたちで勉強会や歌も――歌なんてとてもいいですけどね――歌とか詞章とかをいっぱい聞くと。こういういろんなかたちでデータの入れ替えをすると。はい、これが一番ですね。
はい、じゃあ二番いきましょう。
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