解説「菩薩の生き方」第二十八回(6)

結局この肉体というのは、我々がこの世で何か事をなす上での、道具に過ぎません。たとえば掃除をするときのほうきとちりとりとか、移動するときの自転車や車とか、修理をするときのドライバーとか。肉体もそれと同様の道具に過ぎないというわけです。もちろん、道具ですからうまく使えるようにメンテナンスは必要ですが、執着する必要は何もないということですね。どんなに執着しても、最後は死によって、肉体は私の心から奪い去られるのですから。
さらにまた、肉体を召使にもたとえていますね。私の用事をなしてくれる召使、それが肉体です。もちろん、召使にはそれ相応の賃金が払われなければなりません。だから肉体にも、それ相応の世話は必要ですが、我々はそうではなく、全力をかけて肉体の快適さを求めているのです。それは不合理だということです。肉体の賃金として、たとえばこの身を保つための食物とか、様々な必要なものを与えたあと、あとは我が心の利益になること(修行)をしなさい、ということですね。
そして最後にシャーンティデーヴァは、肉体を船にたとえています。これはどういうことでしょうか?
つまり、生まれてから死ぬまで、この肉体という船を使って何を行なうかによって、次に生まれ変わる世界が決まってしまいます。つまりそういう意味で「船」なのです。悪しき生き方をすればこの船は我々を地獄へ連れて行きますし、善い生き方をすれば天界や解脱へと連れて行くでしょう。
そしてただ衆生の利益のために、衆生を真の幸福の世界へと導くために、この肉体という船を思う存分使いなさい、ということですね。そのような生き方をする者は、もちろん本人も、最高にすばらしい世界へと行くことができるでしょう。
はい。じゃあ、ちょっと時間なくなってきたので簡潔にパッと見ますけども。最初のパートは、これはさっきから言ってることなので、同じことですね。この肉体っていうものは、この世でわれわれがことをなすための道具にすぎないんだと。だからその道具に執着したって、それはメンテナンスはしなきゃいけないけども、執着はしてはいけないんだと。その発想ですね。
はい。それから二番目に書いてあるのは、今度は、肉体を召使いに例えると。これはつまり、この世で、わたしの本質の、つまり魂の使命を果たすための召使いであると。しかしわれわれはそこが逆転しちゃってる。つまり逆にわれわれは肉体の奴隷になってると。つまり肉体がなんか欲求してきて、それを叶えるために全力を尽くすとか、肉体がちょっとでもダメージ負いそうなときにはそれを全力で守るとかね。つまり主従関係が逆転しちゃってると。召使いなのにあまりにもあがめちゃって、あまりにも、なんていうか――つまりほんとは召使いが働かなきゃいけないのに、あまりにも召使いを甘やかし過ぎてるっていうよりは、召使いを崇拝してると。こういう状態だね。
そういえば全然関係ないけどこの間、本屋で、まあ中身を見てないんで、ちょっとうろ覚えだけどさ、なんか猫が飼い主に対して、「あいつはおれの下僕だ」みたいな(笑)、そういう絵本みたいなのがあって。つまり、なんていうか、飼い主がもうほんとに可愛がるからさ、猫って、ね、自分勝手に生きてる。で、猫の目線から見ると、飼い主を下僕と見てると(笑)。「また下僕がおれのためにいろいろやってくれてる」と(笑)。なんかそんな変な本があって(笑)。まあそれはいいとして。でもペットでも確かにそういうのあるかもしれないね。あまりにも可愛がり過ぎて。でもペットは別に、その程度の話ですけども。われわれはこの肉体っていうものを、繰り返すけど、この世で使命を果たすための道具であり召使いとしなきゃいけないのに、逆にわれわれが、肉体の奴隷、肉体の召使いになっちゃってると。うん。それはばかばかしい話だっていう話だね。
はい。で、だからその召使いにももちろんある程度給料を与えなきゃいけない。これはさっきの道具にもメンテナンスは必要っていうのと同じで、ある程度はもちろん肉体のために、まあ食べ物食べたりとか、ある程度のメンテナンスは必要ですけども。その働きに見合わないような、ぜいたくっていうか、あまりにも欲求を叶え続けるとかね。それはもういらないと。逆になんか、ラーマクリシュナの弟子の誰かだったか忘れたけど、なんかの話で、逆にインドでは、苦行、つまり無駄にというか、意味なく肉体を苦しめる、例えば極端な断食をしたりとかね、あるいはずーっと立ち続けるとか意味のない肉体的苦行をするような修行者が結構いたわけだけど。まあ仏教とかあるいは正しい修行の道では、そういうことはあんまりしないんですけどね。でもそういうことをする、しよう、したいと思う人に対して、まあ例えばすごい長い断食をしたいと思う人に対してある聖者は、「おまえの飼い犬だろ」と。「餌ぐらいやれ」と(笑)。そういうユーモアのある言い方をしてると。うん。肉体っていうものはおまえの飼い犬なんだから、最低限のっていうか、ある程度は餌ぐらいやれと。だからそんな意味のない、肉体を苦しめることをやってもそれはしょうがない。だからそれは一方の極端ですよね。
だから繰り返すけど、仏教でもヨーガでも、肉体は牢獄であり、あるいは意味のないものであるけども、今生で修行したり、人のために使うことはできるし、そう使わなきゃいけない。うん。だからその最低限のメンテナンスはしっかりしなきゃいけない。そのために大事に、つまり道具を大事に使うみたいにね、ある程度大事にして、そして十分に――大事にするっていうのは、変な話、使いきるっていうことです。うん。使いきると。例えばスニーカーがあるとしたら、それ大事にするっていうのはさ、家に飾っておくことじゃないよね。ちゃんと履いて、つまり意味あることに使うと。うん。で、例えばその人がスニーカーを履いて、変な話ね、日本中を回って人を救ったとするよ。日本中を歩いて回って人を救い続けたと。で、ボロボロになったと。これはスニーカーにとっての本望ですよね。うん。そのためにスニーカーは使われてボロボロになって、それはスニーカーの死だよね。こういうふうに肉体を使えたら素晴らしい。でもそうじゃない、働きのない肉体に対して意味のないぜいたくを与えてはいけないし、あるいは逆に意味のない苦痛を与えてもいけない、ということですね。
はい。で、最後が、これもまあ、よく出てくる例えだけども、肉体は船であると。なんで船なのかというと、つまり論理的に言って――これも仏教、ヨーガの考えでは、われわれは生まれましたと。この世に生まれましたと。で、死んで――解脱の場合は別ですけども。解脱の場合はこの輪廻そのものから解脱するんだけど。解脱しなかった場合は当然どっかに生まれ変わりますと。解脱した場合は、ニルヴァーナっていうか、救済者の場合はまた降りてくるけども、救済しない場合はニルヴァーナに行きますと。で、解脱しない場合は、もちろんどっかに生まれ変わりますと。それは地獄かもしれない。天かもしれない。人間かもしれない。で、それななんによって決まるんですかと。その人が次どこに行くか、何によって決まるんでかと。言ってみれば、今生の生きかたですよね。今生どうやって生きるか。で、その生き方のベースになるのが肉体ですから。つまりわれわれはオギャーって生まれたときに肉体を得て、肉体を使ってしゃべったり、肉体を使っていろいろ行動したり、考えたり、まあ考えるのは半分はもうちょっと深い意識ですけども。この肉体を使っていろいろやって、その結果としてカルマをつくっちゃって、で、それで、いいカルマが多かったら天に行くと。悪いカルマが多かったら地獄に行くと。中くらいだったら人間界かもしれない。つまり肉体の使い方によって次に行く世界が決まっちゃうから、だから船なんだね。肉体をどう操縦するかによって、着いたところが地獄か、天か、人間か、あるいは解脱か決まってしまうと。
だからそれは、そういうふうに考えなきゃいけない。つまりそれは一瞬一瞬ですよ。われわれのこの今の一秒一秒の肉体の使い方が、実は目に見えないけども、もう航路になってるんです。どっかに向かってるんです。それはもう分かりにくい。つまり太平洋みたいな感じで、今どこ行ってるか分かりにくいです。うん。だからほんと慎重になんなきゃいけない。慎重に、今のわたしの生き方は間違ってないだろうかと。あるいはもっと言えば、今の瞬間瞬間の心の働きは、正しい道からずれていないだろうかと。これを常に考え続けないと、なんというかな、いつの間にか、高をくくってたら、地獄への航路まっしぐらっていうこともあり得るかもしれない。
はい。これが「肉体は船である」っていう考え方ですね。
