解説「菩薩の生き方」第二十八回(3)

「そのようにリアルに死体というものを観察すると、それはハゲタカに食われても、焼かれても、何をされても、何も抵抗をしません。つまり当たり前のことですが、肉体そのものにはそもそも意志はありません。我々が心と呼んでいるものと肉体とは、そもそもが別のものです。そもそも別のものなのですから、たとえばこの肉体がダメージを受けても、本来、心には関係がないではないかというのです。これは、つまり、強すぎるこの肉体への執着(有身見)を取り除くための観想の仕方が、このあともいろいろと続いていくわけですね。」
はい。ただもちろんわれわれは、このあとも出てくるけど、この肉体は、この世でわれわれが修行したり、あるいは人のために生きたりとか、そのための道具としては使える。だからその意味では、ある程度はもちろん大切にしなきゃいけない。例えばヨーガのアーサナとか呼吸法とかね、それも同じ意味ですけど。同じ意味っていうのは、もともとヨーガにおいても仏教においても、実際はベーシックにはこの肉体を、なんていうかな、不浄であり、あるいは魂の檻とかそういう表現をします。つまりこの肉体にわれわれは閉じ込められちゃってる。だから肉体っていうのはほんとは否定すべきもんだっていう考えがまずあるんだね。肉体にとらわれてちゃったらわれわれは魂の自由は得られないと。だから否定すべきもんだっていうのはあるんだけど、しかし同時に、生きてるうちはわれわれはこの肉体を使って生きるわけだから、それだったらちゃんとこの肉体を手入れして、ある程度きれいに保って、きれいっていうのはちゃんと気を通してね、いい状態に保って、それによって修行をしっかりしましょうと、あるいは人々のために生きましょうと、こういう発想だね。だからよく、例え話で言うと――つまり車みたいなもんですね。われわれが乗ってる車であると。で、われわれが例えば仕事をするために車が絶対必要であるとする場合ね、当然、ある程度車の手入れが必要だよね。うん。車の手入れはしないで乗ってたら、すぐエンストしたり、ね、いろんなトラブルが生じて、うまく仕事に使えないかもしれない。だからしっかりと、マメに、車をいい状態に保つと。いつ何があってもその車で飛んでいけるように、車をしっかり整備すると。しかし執着しちゃ駄目ですよね。うん。――っていう話なんだね。
つまりここでいうわれわれの執着っていうのは、今の例えで言うと、車が超好きな人よりも執着してます。うん。まあ、でも車が超好きな人でそういう人いるかもしんないけど。つまり、車と同体(笑)。うん。つまり、そういう人いるかもしれない。例えば誰かがちょっとでも汚れた靴で乗ったら、「やめろ! おまえ!」と(笑)。
(一同笑)
「泥がついたじゃないか!」と(笑)。ね。あるいは「この車に乗るときは必ず体の汚れを落としてから乗ってください」と。ね。で、ちゃんと車の中もすごくきれいに装飾したりしててね(笑)。もう車がちょっとでも何かダメージを負うことが自分自身が傷付くのと同じくらいになっちゃうと。これも完全な執着ですよね。
で、われわれはこれ以上です。うん。これ以上にこの肉体という車に執着し過ぎてる。つまりその車イコール自分と思ってる人以上に、肉体イコール自分と思っちゃってると。しかし正体は、ここに書いてるように、いや、肉体ってのはただの物ですよと。うん。
これはだから繰り返すけど、仏教論、あるいはヨーガやヒンドゥー教の論の中心における、唯識とか、あるいは唯心論といわれる――実際には唯識、唯心でもないんですけど、つまり心というよりは、心よりさらに奥にある、魂の本性みたいなのがあると。それがわれわれの本性であって、肉体っていうのは、何度も言うけども、乗り物にすぎない。一時的な、なんていうかな、道具にすぎないっていう発想ね。だから現代的な唯物論的な、あるいは肉体に本質を求める考えとは真逆の話になるね。つまり現代的な発想だと、例えばまず肉体があって、で、脳があって、で、われわれの心の働きっていうのはすべて、脳の神経細胞のさまざまな働きにすぎないんだっていう考えが一つあると。つまり心というものはただ脳がつくり出したいろいろな電気信号等であると。うん。これは現代的な一つの考えだね。で、もちろん脳なんていうのも、ある程度いろんな実験によって、仮説を立て、その仮説の証明がいろいろされてはいるけども、実際にはもちろんその本質は分かってないですよね。何度も言ってるけど、脳科学っていうのは実際にはわれわれの修行に結構役立つところある。つまりもともと仏教とかヨーガでいってる精神論というかな、うん。それと結構似てるんですね、脳科学ってね。うん。だからかなりその解明をしてくれてはいるんだね。心の解明みたいなもの。ただ限界がある。限界っていうのはその脳もやはり物質にすぎないから。つまり心のあるパートを担ってるにすぎなくて。もっともっと奥にわれわれの本性みたいなものがある。で、それになんとか到達しようとして、いにしえのヨーガとか仏教の修行者たちは一生懸命修行を繰り返してきたわけだね。
で、その一つの結論としては、もちろん当たり前だけど我々は肉体ではないと。そしてわれわれの本質っていうかな、このわれわれの自我意識の、われわれが普通に「わたし」といってる自我意識を超えた、正体みたいなもの、その奥にあるものは、ヨーガではそれを真我というわけですけども、仏教ではあんまりそれを積極的にはいわないけども、心の本性とか――密教とかではね、それを例えば、心の本性、あるいはちょっと違うけどもリクパとか、あるいは、そうだね、光り輝く心の本質であるとか、そういう言い方でいったりもする。で、それに到達することが、われわれの個人的な修行の一つの目的であると。
もちろん菩薩道とかバクティヨーガとかになってくるとさらにスケールは大きくなってくるんだけど。でも基本的な第一の目的としては、われわれが今だまされている、最も外側の肉体の正体を見抜いて、そして心の本質に到達しなきゃいけない。
はい。で、ちょっと話を戻すけども、だからまずはそのような、われわれがずーっとだまされてきたっていうか教え込まれてきた、「肉体っていうのはわたしなんですよ」っていう感覚ではなくて、「いや、そもそもこの肉体っていうものはわたしじゃないよ」と。「ただの乗り物だよ」と。「それは死体を見れば分かるだろ」と。
つまりさ、肉体もわたしだったらさ、変な話、死とともに消滅するなら、「あ、やっぱりこれ、おれだった」ってなるかもしれないね(笑)。誰かが「うー」って死にましたと。シューって消えましたと。あ、彼はこの世から消えたと。うん。もちろんこれはさ、何度も言うけど、輪廻転生、あるいはさっきも言ったように真我であるとか、そういったものを、修行によって経験すれば最高ですね。あるいはしないまでも、ちゃんとそれを教えとして信じてる人の場合ですよ、この話が通じるのはね。つまりほんとにお釈迦様が言ったような輪廻転生があって、あるいはヨーガ、いにしえのヨーガの聖者方が言ってるような真我っていうのあって――それはもちろん皆さんが修行すればだんだんそれは実感として分かってくる。で、それがあるならば、繰り返すけど、われわれは、なんというかな――これはちょうど今アムリタチャンネルでやってる『バガヴァッド・ギーター』でも、ちょうど今週その教えを説いてるね。アルジュナが、戦争にいよいよ突入するとなって、まあ愛する親族との戦争なので――実際にはもちろんそれだったらその前になんとかすればよかったんだけど、もうなんともできない状態になっちゃって、で、いよいよ戦争に突入すると。「もうここは戦うしかない」みたいなときになって、いきなりアルジュナがちょっと怖気出すんだね。「やっぱりやめましょう」と。うん。「愛する親族たちを殺すことはできない」と。
で、ここで面白いのは、ドリタラーシュトラが、サンジャヤっていうお付きの者が神通力でその場面を見ていて、その報告を受けてて、アルジュナがそういうふうに「やっぱりやめましょう」とか言いだしたんで、ドリタラーシュタラは本音は戦争やりたくなかったから、アルジュナがそう言いだしたんで喜びだすんだね。「おお、アルジュナが、なんと戦争やめようとか言いだしてる」と。うん。で、クリシュナっていうのはさ、みんなからあがめられてた神の化身っていわれる人だから、ドリタラーシュトラは最初、アルジュナが当然、「そんな、戦争なんてやめましょう」と、「平和が一番です」って言いだしたから、クリシュナも当然、「じゃあ、やめよう」って言ってくれるかと思って期待してたら、「怖気付いたのか」と(笑)。逆に戦うことを促すんだね(笑)。「それはただのおまえの逃げだ」と。「使命を果たせ」とか言って。で、ドリタラーシュトラはそれを聞いて、「クリシュナは逆に、アルジュナを戦争に追い立ててるじゃないか」とか言ってなんか怒りだすんだけど(笑)、これ、面白いシーンだよね。
で、そこでクリシュナが言うには、そこでまあ一つの秘儀っていうか秘密を明かすわけだね。「実はこれはわたしの計画なんだ」と。うん。実は、表面だけ見ると親族でいろんな争いがあって、もうどうしようもなくなって戦争が起きたように見えるけども、もともとクリシュナが神の化身として降りてきた一つの使命がね、その当時ちょっとカルマが重くなっていた人類のカルマをいったん浄化するために、リセットするために、この大戦争を起こしたんだと。それはクリシュナの意思だったんだね。で、おまえは、つまりアルジュナは、その役割をただ担ってるだけなんだけど、「おまえがもしやらないんだったら、やらなくても戦争は必ず起きるし、多くの者が死ぬことはもう決まってるんだ」と。「おまえがやらないんだったらほかの者がやる」と。「ただそれだけの話である」と。「だからおまえはただ、神の道具として自分の使命を果たしなさい」と。それが根本的な話なんだけど。
で、それに加えて、人の生き死にというものについても話すわけだね。うん。つまり、「人は必ず死ぬ」と。ね。「どんなにおまえが愛そうが、誰だって死ぬんだ」と。「そして生まれ変わるんだ」と。うん。「おまえは何も覚えてないだろうが、おまえも、今まで何度も何度もいろんな世界に生まれ変わってきたんだ」と。「これが魂の転変である」と。もちろん解脱すれば別だけど。「解脱するまでは、繰り返し繰り返し生まれ変わり続ける」と。「だからそこになんの悲しみがあるんだ」と。うん。つまり今生だけを見てるから、つまり逆に言えば肉体を本質と見てるから、つまり今生の死っていうのはあくまでも肉体の終焉ですよね。肉体の機能がストップしたと。それを死と言ってるだけであって、魂は永遠であると。真我は永遠であると。だからその真我の乗り物である肉体の機能がストップしたからといって、その魂は今度は次の肉体でまた活動を始めるわけだから、そこになんの悲しみがあるんだと。「そんなことで悲しんでないで、自分の使命を雄々しく果たしなさい」みたいなことをクリシュナは言うわけですね。
だからこれはヒンドゥー教、あるいは仏教等に、ベースに流れる根本思想ですね。で、この根本思想を信じるならば、あるいは修行して経験するならば、当然ここで言ってるようなことは当たり前のことで。当たり前っていうのは、肉体って物でしょと。うん。ただ、繰り返すけど、だからといって粗末にしちゃいけないよ。これを使って修行したり、救済したりするわけだから。さっきの車の例えみたいに、粗末にはせずに、ちゃんと、ある程度の手入れはしなきゃいけないんだけど、しかし度を越して執着してはいけない。その度を越した執着こそが、われわれのいろんな苦悩の原因となるし、あるいはもちろんさまざまなわれわれの心の錯覚の原因になる。
さっきの車の例えと同じでさ、もちろんわれわれはもうベーシックにちょっと肉体に対するとらわれを持っちゃってるから。完全に肉体への執着をなくすのはちょっと難しいかもしれない。つまり、ね、やっぱり殴られたら痛いし。ね(笑)。切られたら痛いし。「それはちょっと痛いよ」ってなるよね、神経がつながってると。それは心が完全にそれにとらわれてると。それは当たり前であると。しかし、繰り返すけど、あまりにも強過ぎる――まあ言ってみれば、じゃあ、車の例えで言うとさ、当然その車を仕事に使ってるわけだから、誰かなんか不良とか変なチンピラがやって来てね、窓ガラスを割ったりしたら、「ちょっとやめろ」と。ね(笑)。それは注意するよね。うん。あるいはそういう人がいたら止めるよね。「ちょっと窓ガラス割らないでください」と。ね。でもさっき言ったみたいに友達が乗って泥が落ちたぐらいだったら、「別に気にしませんよ」と。うん。「そんなのどうでもいいですよ」と。それはね。あるいはちょっと間違って誰かがぶつかって、ちょっと傷付いたとか。ね。うん。「いや、そんなのはどうでもいいです」と。うん。「別にそれでわたしのこの仕事が何か阻害されるわけではない」と。でも窓ガラス割られたりパンクさせられたり、ねえ、ドアミラーを割られたりしたら、それはちょっとやっぱり差し支えがあると。その程度の話だね。
だからこういう話っていうのはさ、だいたい『入菩提行論』とかそうなんだけど、結構まず、極端な教えをバーンって説くんだね。まあ、よく言う自他転換の教えとかもそうですけども。つまり「一切の幸福はみんなに行ってください」と。「一切の苦悩はわたしに来てください」と。このトンレン的な発想っていうのは、一見極端に見える。何度も言うけど、この慈悲の教えっていうのは二つあって、もう一つの教えっていうのはもうちょっと柔らかいんですね。それは一切平等の教え。「わたしもあなたも、みんなもみんな平等ですよ」っていう教え。これなんか、なんていうかな、ソフトでとっつきやすいよね。もし皆さんが――ここではさ、「トンレンの教えは素晴らしいよ」と教えてるから素晴らしいと思うかもしれないけど、何も知らないでこの二つを比べたらね――つまり一番目は「全部苦しみよ、来い。わたしの幸せはみんなにあげます」――この教えと、二番目は「すべては平等ですよ」と。うん。「みんな一切平等。みんなで幸せになりましょう」と。当然こっちを取りたがるよね。そっちの方がなんかきれいだし、なんというかな、あまりストレスもないと。「やっぱり平等ですよね」と。
でも、そんなことやってたら平等になれません(笑)。われわれのエゴは根強いので、「平等、平等」とか言ってても、全然平等になれません。だから、前者、つまりわたしの幸せは全部、つまりフィフティーフィフティーじゃなくて、あるいは七三でもなくて、百ゼロです。百ゼロでみんなにあげますと。で、苦しみは百ゼロでわたしがもらいましょうと。もちろんこれはまず心の問題ですよ。そのような心を持つと。で、現実的に何をするかは、自然にっていうか、その心から現われるものでいいんですけども。少なくともこのような心構えを常にイメージするだけで、さっきの平等心の世界よりも、かなりの力がわれわれのエゴに加わるんだね。
つまり、「百ゼロ」っていったって百ゼロになりません、当たり前だけどね。なれたらその人はもう聖者です。「今日からもうエゴゼロになりました」と、「みんなの幸せしか頭にありません」っていう人がいたら、もうその時点で聖者ですよね。そうはなれない。なれないけども、じゃあ――まあこういう話も何度もしてるけどね。今の時点でわれわれのエゴと、衆生への愛の関係は、多めに見積もって、九十九対一です。つまり九十九エゴを考えていて、つまり自己利益を考えていて、他者への幸せは一パーセントぐらいしか考えていない、これ、多めに見積もってですよ。いや、もちろん多くの人は、「そんなことない」って言うかもしれない。それは自分の潜在意識っていうか心が分かってないだけで、われわれの心の深い部分はそう思ってます。うん。自分だけ良ければいいと。九十九パーセントそう思ってます。で、これを、繰り返すけど、この人が「平等心」とかいったって変わりません。で、この人が「自分ゼロ、他者百」って思ってたら、ちょっと変わります。ちょっと。これでもちょっとです。まあ九一ぐらいになるかもしれない。うん。それでもすごいことなんだね。だからこれくらいやらないと、なかなかわれわれの心っていうのは変わらない。
だから、ちょっと話を戻すけども、この肉体に関しても、「肉体なんてただの物にすぎないんだ」と。ね。さっきも言ったように、修行とか救済のために整備する必要あるけども、それ以外ではなんのとらわれる必要も全くないと。うん。全然こんなものはただの――つまりこういうフォークとかね(笑)、あるいはもちろん車とか、あるいは電気ドリルとかね。わたしいつも道具の話すると電気ドリル(笑)。わたしの家、家具屋だったからさ、イメージとして電気ドリルとかよく出てくる(笑)。電気ドリルとか、ね、なんだっけ、ギューッてねじ締めるやつ(笑)。つまりそんなものにすぎないと。肉体はね。で、そこまでドライに思いきって――でもそんなことは思えません。思えないけども、そう思おうと努力することでやっと、ちょっと弱まります。それまで強過ぎた、つまりそれまでちょっと肉体が阻害されたり、あるいは人からばかにされたり、あるいはいろんなダメージを負うことですごく苦しんでたのが、ちょっと楽になるっていうか、どうでもよくなってくる。ちょっとその錯覚が減ってくるんだね。
はい。もちろんこれは、実際には、他者、つまり特に異性の肉体の分析にも、まあ、つながってくわけですけどね。これはここではあんまり突っ込んでは説かれてないけども、つまり自分の肉体がただの物、もっと言えば不浄なるもの、糞尿の袋であり、不浄なる物体であるっていうのと同じように、異性の体もそうであると。つまり男性から見たら女性、女性から見たら男性と。まあ同性愛者の場合は同性ですけどね。その自分が愛着を感じる異性の体も、ただの物質であって。うん。あるいは、多くの糞尿や血や膿で満ちた不浄なる物質であると。こうやって、自分の体、そして他者の体への、強過ぎるとらわれを弱めていくと。
これが仏教の念、四念処といわれる念の修行の一番最初に来るわけですね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第二十八回(2)
