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解説「菩薩の生き方」第二十五回(4)

【本文】

 まず第一に、この心がかように常に見守られねばならぬ。次に私は、あたかも木材のように、常に感官の無い者のごとくあらねばならぬ。

 いつも無益にまなざしをうろつかせてはならない。視線は禅定におけるように常に下方に向けられるべきである。

 しかし視線を休めるために、人は時折、諸方を見るべきである。また(行き会う人の)影を見たなら、その人を眺めて挨拶すべきである。

 路上等においては、危難を警戒するために、時々四方を見よ。立ち止まり、後ろを振り返ったりして方角を観察せよ。

 前進するにも後退するにも用心して行なえ。かようにあらゆる状態において、なすべきことを自覚してなせよ。

 なお「身はかように保たれるべきである」と所作について己に指示を与えた後に、さらに途中で、身はいかに保たれているかと、省みねばならない。

【解説】

 「木材のように」というのはこの経典でよく出てくる表現ですが、面白いですね。
 ヨーガにおいても原始仏教においても、感官の制御、すなわち制感というのは、重要な位置を占めていますね。すなわち、感覚は放っておくとあちこちへと向かい、執着したり悪しき心を生んだりするので、それを制しなさいということですね。それをシャーンティデーヴァは「木材のように、感官の無い者のごとくあれ」と表現しています。

 もちろん実際は我々は五感を有しています。それをわざわざ自らの目をつぶしたり、鼓膜を破ったりする必要はありません。そうではなく、この五感を有し、必要なときにはそれらを使いつつも、悪しき方向に流されないようにコントロールし続けるのです。

 まずきょろきょろするな、とシャーンティデーヴァは言っていますね(笑)。特に現代ではこれは言えていますね。町を歩くと、いたるところに煩悩を刺激する広告が目に入ってきます。あるいは刺激的な格好で魅力的な異性が歩いていたり(笑)、おいしそうな匂いが立ち込めてきたり、恋愛の歌が流れていたりします。そういったものにきょろきょろして心を奪われるな、ということですね。

 視線を下方に向けるというのは、仏教の伝統的なやり方ですが、これはケースバイケースですね。クンダリニー・ヨーガ的な瞑想や、正観(ヴィパシャナー)の瞑想においては、視線を上向きにしたほうが良いともいいます。ちなみに私自身は、結構いつも上向きで歩いたりしますね。これはこれで、空しか見えないのでいいです(笑)。まあ、都会だと、上を向いても下を向いても広告が目に入ってくるかもしれませんが(笑)。

 人と行き会ったら挨拶すべし、というのも、大乗仏教的な感じがしますね。まあつまり、人と行き会ってもじっと下方を見つめてぶつぶつとマントラなどを唱えていると変ですから(笑)、衆生に対しては友好的に挨拶を交わせということでしょうか。
 ただ原始仏典でも、お釈迦様や弟子たち、あるいは外道や信者たちが、それぞれ会うときに、親愛なる挨拶を交わしているシーンが見受けられます。この辺は無畏施(安心施)にも通じるのかもしれませんね。煩悩を放棄する実践と、他者を受け入れる慈愛の実践のバランスをうまくとらなければいけませんね。

 そして何をするにも、常に覚醒した意識を保ちつつ行ないます。ぼーっとして行なわないようにします。この辺は以前に何度も「念」の説明で書いたことの一つですね。

 そして自らの行為において、「このようにすべきである」と自分自身に指示を与えた後に、それがそのとおり行なわれているか、チェックしなければならないといっています。つまり正智ですね。

 はい。「まず第一に、この心がかように常に見守られねばならぬ。次に私は、あたかも木材のように、常に感官の無い者のごとくあらねばならぬ」と。
 はい、まずさっきからずーっと続いてる、グルや仏陀を常に念じることによって、しっかりと念正智すると。そして次の取り組みとして、よくこの『入菩提行論』のいろんなところに出てくる「木材」っていうやつね。木材のイメージわかりますよね。つまりまさに木材です。つまり無機的な、ただの物のように感官を――つまり感官っていうのは五感ね。目・耳・鼻・舌・そして触覚、これらがまるで、ただの、付いてるだけの、なんの反応もないもののようにしなさいと。
 ただ、ここにも書いてあるけど、だからといってそれをつぶしてしまったりする必要はない。というか、そうだな、小乗的なパターンにおいては、まさにこの制感――感覚を閉じる、感覚を一切シャットアウトする――これにまあ重点が置かれるわけだね。しかし大乗仏教とか密教の世界になると、それじゃ駄目なわけだね。つまり大乗仏教では、つまり感官を閉じたり、あるいは行動器官をストップさせたりしたら、救済ができませんよね。つまりこの世にいながらにして、普通の人と同じように五感を使い、行動しつつ、聖なる状態を保てる状態をつくんなきゃいけない。これが大乗仏教だね。
 密教になるとさらにそれが進み、密教においては小乗仏教で否定していた一切が――否定していた自分の五感、あるいは五蘊、こういったものすべてが、仏陀やダーキニーの現われであるっていうふうに考えるんだね。つまり、視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚も、実際はわれわれがそれを勘違いして、けがれたかたちで使ってるから駄目なだけであって、その本性っていうか本質は、仏陀の本質なんだと。だからそこまで昇華するわけだけど。
 でもまだそこまではいかない、第一段階のまず取り組みとしては、決して、この五感から生じる欲望に心奪われるようなことはしないと。これは基本的な、制感といわれる取り組みですね。

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