解説「菩薩の生き方」第二十九回(1)

2019年5月8日
解説「菩薩の生き方」第二十九回
【本文】
かように己自身の支配者は、常に笑顔を保てよ。眉のひそみを捨て去れよ。世の人々の親友として、はじめに人に会釈の言葉を述べよ。
荒々しく声を出したりして椅子やベッドなどを突き倒したり、扉を叩いたりゆすったりしてはならない。いつも騒々しさを好まぬ者であれ。
鷺(さぎ)と猫と盗賊とは、音を立てず、目立たぬように行動して、目的を達成する。修行者も常にそのように行動せよ。
【解説】
「かように」というのは前までの流れを受けているわけですが、自分の心も、そして肉体も、自分自身で支配しなければならないわけです。つまり自分自身および他者に最も利益がある行動・言葉・心の働きを為すように、心身を調御(ヨーガ)するわけですね。
そしてここからまた少し具体的な実践内容が出てきます。
まず常に笑顔を保て、眉のひそみを捨てろ、とありますね。常に笑顔でいることは大事ですね。心に苦しみや悲しみがあっても、笑顔を保つなら、自分も周りも友好的で明るくなります。
親友に対しては――しかも尊敬の念も含んだ親友に対しては、私たちは常に、友好的に挨拶を交わすでしょう。すべての人々に対して、そのような、尊敬すべき親友に対するように、友好的な挨拶を交わしなさい、と言っていますね。
そして次に、まるで鷺や猫や盗賊のように、目立たぬように行動して、修行者の目的を達成せよ、とありますね。
これはどういう意味でしょうか? 修行者の目的とは、自分と他者を解脱・悟りといった真の幸福へと導くことですね。そこにおいて、自分はこんなに修行しているんだとアピールするとか、人々のためにこんな活動をしてますよとか必要以上にアピールせず、逆にわざと目立たぬようにして、自己と他者の真の幸福を密かに達成しなさい、ということですね。
はい、まず、これは前までの流れを受けて、「かように」と。今まで言ってきたように、菩薩というのは、「己自身の支配者」って書いてあるわけですけども、つまり自分自身をしっかり支配しなきゃいけない。つまりそれは教えによって自分の身口意を支配し、自分と他人に利益がある行為だけを行なうと。
はい。そしてここから、ちょっと具体的なアドバイスの項目に入るわけですね。そのまず最初が、「常に笑顔を保て」と。「眉のひそみを捨て去りなさい」と。
はい。ここに書いているように、笑顔というのは、当然、人の、つまり他者の心にもいい影響を与え、つまり周りを明るくしたり、あるいは幸せにしたりすることができるかもしれない。もちろん、菩薩道というかな、修行していると、さまざまな苦しみあるいはカルマ落とし等で苦しかったり、あるいはいろんな悩みとかが出てくるときがあるかもしれない。でも、つまりここでいっているのは、常に笑顔を保てと。つまり心の状態がどうであろうと、笑顔を保ちなさいと。
「眉のひそみを捨て去れよ」と。はい。つまり眉のひそみっていうのは、まあ、なんというかな、苦しみによってグーッと顔が本当に苦しそうな顔になってたりとか、あとはまあ別にそうじゃなくても癖っていうかな、自然にグーッと眉間にしわが寄った表情をする人がいるかもしれない。それは、なんというか、渋い、苦み走った(笑)、いい顔ってとらえる人いるかもしれないけど、でも人によってはやはりそれは「あの人何か悩んでるのかな?」と。あるいはなんか周りも嫌な気分になったりすることもあるかもしれない。あるいはもちろん眉のひそみだけじゃなくても非常に冷たい表情とかね、あるいは嫌悪を含んだ表情とか、それは当然周りを嫌な気持ちにさせたり、あるいは、なんというか想像によって、悪い感情っていうのは周りにも伝播してしまう。これはさ、つまりこの「笑顔を保てよ」の逆のパターンで、実際その本人が悪い感情を持っていなくても同じですよ。つまり本当は別に自分は苦しくもないし誰も嫌悪していないんだけど、癖とか、あるいはかっこつけたりして、なんかちょっと嫌悪っぽい、あるいは冷たい、あるいは嫌な表情をしたりすると、周りはそれをそう受け取っちゃうから。「あの人ちょっと今、誰かを嫌悪してる」とかね。「なんか嫌なんだろうな」とか。で、それによって周りにも、つまり周りの悪い感情を生起させることになってしまう。だから表情一つとってもなかなか、われわれは気を付けなきゃいけない。「菩薩は常に笑顔を保て」と。
で、繰り返すけど、まず一つとしては、実際はどうであろうと、つまり実際は苦しかったり、悲しかったり、あるいは悩んでたりしてようが、笑顔でいることが――いいですか?――菩薩の義務であると。義務。うん。つまりほかの、つまり他人を救済しようとしていない人は別にいいんですけど、でも菩薩は人を救済しようとしているわけだから。そういった人は、そのような義務がある。どんな状況でも、ニコニコと、ね、素晴らしい笑顔を保つと。そうすると周りももちろん勘違いするかもしれないよ。「あの人はいつも楽しくて、うれしくて、あまり悩みないんだろうな」と。うん、それでいいんだね。それでいいっていうのは、別に菩薩は誰にも分かってもらおうとする必要はない。ただただ、もちろんグルや至高者に帰依はするけど、なんというか愛情欲求みたいな感じで、ましてやグルや至高者じゃなくて普通の人々に分かってもらいたいとかね、そういう気持ちは持つ必要は全くない。ただただ自分のけがれと戦えばいいだけであって、あるいはその戦った、で、勝ち取った自分の境地を、グルや至高者に供養すると。そのような勇猛な勇ましい心を持てばいいだけであって、表現する必要は全くない。表現としては常に、喜び、笑顔を表現すると。これが――もちろんそれを、なんというかな、そのようなムードに浸ってもいいよ。浸るのはいいですよ。浸るのっていうのは、おれは実はいろいろあるけども(笑)、今日も皆の前ではいつも笑顔でいるんだと。これは誰にも分かってもらえない。それで全く問題がないんだと。
――で、実際さ、これも皆さん経験もあると思うけども、そのような、苦しかろうがあるいはいろいろあろうが笑顔でいると、もちろんそれは周りにいい影響を与えるし、自分もなんかその影響を受けますね。つまり形から入る。笑顔でいることによって、逆に自分の中の変なこだわりが消えたりとか、ちょっといい方に精神状態も向きやすくなると。だから常に笑顔でいるっていうのはすごくポイントではあるね。
はい。で、それは一つなんだけど、もう一つ言うならば――今言ったのは、仮に心がどういう状態であったとしても、表面的には笑顔でいましょうと。で、もう一つは、そもそも、修行者、特に菩薩はやはり、心から常に笑顔、あるいは喜びを持っていて当たり前であると。
これは例えば何度も出てくる話だけども、メダサーナンダさんが前にここで言ってたのは、「至高者というのは、神というのは、至福の塊である」と。「だから常に神を思っている者に、苦悩があるはずがない」と。「だから常にハッピーなはずだ」と。だから修行者っぽく、なんか、まさに眉間にしわ寄せて難しい顔してるんじゃなくて、真に神を思っている者は、常に喜びに満ちているはずなんだと。
ちょっと話がずれるけれど、ちょっと前に、これはわたしもちょっと見ただけなんでうろ覚えなんだけどさ、なんかのニュースで、ヨーロッパかどっかのある女性がガンにかかって、三十歳くらいで死にましたと。でもそのガンにかかって、もう先がないと分かったときに、その人は――ちょっとこれはうろ覚えなんで細かい情報は若干違うかもしれないけど――いろんなガン治療をやって病院で延命するんじゃなくて、残された時間――もちろん最低限のことはやったろうけど、いわゆる抗ガン剤であるとか、放射線とか、そういうのをやらないで、残された時間を、やりたいことをやることに費やしたと。その人の場合は旅行とか、一般的なことだけどね。旅行したり、友達と遊んだりとか、そういうことをやりまくったと。で、その人が亡くなる直前に、新聞に広告を出して、で、その内容が、ちょっとうろ覚えなんで正確じゃないかもしれないけどね、「小さなことにこだわらないで」と。「人生をもっと楽しんで」と。そういうメッセージを送ったと。つまりその人はおそらく、今までいろんなことで、くだらないことで悩んだり、あるいはいろんなことを我慢したりいろいろしてて、でも最後に「あ、わたしは時間がない」って思ったときに、そういう生き方をして、で、そういうことに気付いて、つまり今までの生き方のもったいなさに気付いて、それをメッセージとして送ったんだろうけど。
はい。この話は、なんというかな、受け取り方によって、ちょっといろいろ意味合いが変わってくる。例えばさ、このまま受け取ったら、ただの無智ですよね。無智っていうのは、つまり普通の人がですよ、教えも知らない人が、エゴに満ちている人が、「そうだ!」と。まあ小さなことにこだわらないってのはいいことだけど、好きなように「もっと人生を楽しもう!」といって欲望追求、エゴの追求、やりたいことやりまくったら、まあ徳が減るだけだし、それ以前に多分できないですよね。できないっていうのは、そんな、世界を旅行しまくるお金みんな持ってないし(笑)。ね。いろいろそこで不満も出るかもしれない。いろいろな、結局カルマの範疇でわれわれは生きているからね。できないことの方が多いと。そしてもしそれを無理やりやったり、あるいはできるカルマがあるとしても、ただ残された人生、ひたすら、欲望というかな、自分のやりたいようにもし生きてたら、ただ徳が減るだけです。徳が減って、低い世界に落ちるかもしれない。
またちょっと話が広がっちゃうけど、これ、いろんな考え方があるけどね、あるチベット仏教の僧が、なんかの本のインタビューで答えてて、まあこれ、一つの考え方ですけどね、「いや、わたしはもう死ぬときっていうか、もう人生の最後は、ガンとか、いろんな苦しい病気にかかって、できるだけ苦しんで死にたいんだ」みたいなことを言ってて(笑)。つまり全く逆、正反対の考え方ですよね。うん。つまり死ってのは一つの、解脱してない限り、転生の大いなる場ですから、生きているうちに、『入菩提行論』にあるように、できるだけカルマを落としておきたいと。それはカルマとか輪廻転生観があるかないかでその考えは全然変わってくると。
はい、まあそれはいいとして、今言いたかったのはそういうことじゃなくて――もう一回言うよ。「小さなことにこだわらないで」と。「人生をもっと楽しんで」と。これは凡夫的な見方っていうか凡夫がそれをそのまま受け取ったら、一般の人がそれをそのまま受け取ったら、多分無智な意味で受け取ってしまうかもしれない。でも修行者とか菩薩の立場・観点からこの言葉をもし受け取るとしたらね、これはある意味素晴らしい言葉になる。それは、いつも言ってることだけど、われわれは真理に巡り合ったと。特に菩薩道とかバクティっていう素晴らしい真理に巡り合った。で、いつも随喜の瞑想で言うように、これ以上の喜びはないと。これに比べたら、なんかこの人生で不満とかあるのかと。ね。なんかこだわって、うじうじ苦悩することなんて、なんかあるの?と。これ以上の欲しい物っていうかラッキーっていうか、それ、ありますか?と。そういう瞑想をよくやるわけだけど、で、それをもっと深く考えたら、なんていうか、ある意味それは大変な喜びであって、大変な楽しみであって、あるいは大変な幸せであって。
その観点から、修行者、あるいは菩薩は、この真理に巡り合い、それを実践できるこの稀有なる人生をもっと楽しみましょうと。もっと修行を楽しみましょうと。あるいは菩薩道を楽しみましょうと。小さなことにこだわるなと。もちろん苦しみはいっぱいあるでしょう。それも含めて楽しみましょうと。苦しみを含めて楽しみましょうっていうのは、そこでの苦しみっていうのはさ、つまり一般の、例えばスポーツとか、いろんな趣味とか仕事とかと同じで、当然それを達成するときの苦しみってありますよね。例えば運動部だったら、ね、基礎体力から始まって、一流になっていくまでのいろんなトレーニングの苦しみがあって当たり前であると。で、修行も全く同じですよね。自己改革を狙っているわけですから。今の自分から変身していくときの苦しみっていうのは当然あって当たり前であると。そのベースに、わたしはなんて素晴らしい幸運によってこんな真理と出合えたんだろうと。いや、本当にこれは素晴らしい――こういう考えがあったら、われわれが進化していく過程の苦しみはまた喜びであると。ああ、どんどんどんどんわたしは変わっていくと。この一つ一つの苦しみや、一回一回の修行によって、わたしはまた変わっていくと。なんて素晴らしいんだろうと。ね。
これはもちろん、性格にもよるだろうけどね。人によっては例えばかなり、なんていうかな、過剰なイメージを抱いてもかまわない。例えば、「おれ、このまま修行したらどうなっちゃうんだろう?」と。「ミラレーパみたいになっちゃったり」(笑)。もちろん慢心は駄目ですよ。慢心は駄目だけど、一つの未来の展望として、「このまま十年二十年って修行していったらミラレーパに匹敵するんじゃない?」とかね(笑)。あるいは、ねえ、もちろん慢心は駄目だけど、必ずわたしは今生でね、それはどれくらいかかるか分からないけども、自分の縁のある人たちを、まあヴィヴェーカーナンダが言うように、触るだけで解脱させちゃうぐらいの、それくらいの聖者になりたいと。
もちろんここには悲壮なる決意があるけれども、悲壮だけじゃなくて、やはり喜びと楽しみみたいなものがあるんだね。なんてわたしは素晴らしい人生に巡り合ったんだと。普通の人生は、徳を減らし、何が真理か分からず、苦しみの中に埋没し、ただごまかしの日々が過ぎるだけであると。そうではない、この輪廻からの脱却の道だけじゃなくて、もっとプラスの、つまり――輪廻からの脱却の道、解脱の道っていうのはつまりこのマイナスの世界からいかに脱却するかって話ですけども、それだけじゃなくて、大いなる喜びを伴った、神のリーラーの相手、神のリーラーの道具、そして、人を救済する、あるいは愛に満ちた自分をつくり上げて、周りにもその愛の、あるいは慈悲の世界を広げていく素晴らしい菩薩道に出合ったんだと。いや、なんて楽しいんだろうと。これが、まあ正解の心の働きなんだね。
だから本当に、普通に、自然にそのような心の働きをキープできたらこれは最高です。でもなかなかそれは普通できないかもしれない。逆にだからいろんなこと、小さなことにこだわっちゃって、自分がいるこの大いなる幸福をすぐ忘れてしまう。よってわれわれは、それを忘れないように――だからあの四つの『共通の加行』の一つとして、「人間に生まれ、真理に出合えることの稀有さ」っていうのがあるけども。
今回、もうちょっとで『パトゥル・リンポチェの生涯』の本が出ますけども。ネットとかにはいろいろ、全部じゃないけど途中までアップしてるけども、パトゥル・リンポチェのある信者への教えの中でも、まずは徹底的に、『共通の加行』に書いているような四つの教えを徹底的に自分に刻み込めと言ってるんだね。つまりその教えにおいては、ほかの修行をする必要はないと。もう徹底的にそれだけをやると。徹底的にそれだけやって、もう本当に、もう自分は修行するしかないんだと。あるいは修行する喜びの前に、ほかのことが一切もう興味がないと。それくらいになるまでその教えを徹底的に根付かせろ、ってパトゥル・リンポチェも言ってるわけですけども。
もちろんそれだけをひたすらやっててもなかなか根付くのは難しいと思うから、実際にはもちろん一緒でいいんですけども。いろんな修行をやりながら、今言った、なんてわたしは素晴らしい真理に出合ったんだと。なんて素晴らしい人生なんだと。なんてわたしは恵まれているんだと。この幸運の前には、なんの不満もなければ、なんの悩みもない、っていうようなこの喜びに満ちた意識を常にキープし続けると。
あるいはもっと言えば、ね、それは自分の死、いつ死ぬかっていうのとの戦いであるから、この思いがしっかり根付いてれば、まあ、相当真剣になるでしょうね。つまり、「なんてわたしは素晴らしいものに巡り合ったんだ」っていう思いが強ければ強いほど、逆に言うと、これを逃したらもうアホだと(笑)。超ラッキーですよ。超ラッキーチャンスを得たんだけど、でもこれはあくまでもチャンスです。パッてそれをもらったら解脱するわけじゃないから。「ブッダになる」じゃないよ。「ブッダになれる」、あるいは完全にこの輪廻の苦から解放される、超ラッキーチャンスを今パッて手にしたわけだね。これを手にしておいて、全くそれを生かさなかったら、もうアホの極みであると(笑)。アホ・オブ・ジ・アホであると(笑)。
(一同笑)
これ以上のアホはいないと(笑)。つまりそれは、なんていうかな、つまり多くの、過去のね、偉大な修行者がそうであったように、それを考えるともう寝る間も惜しんで修行するしかないと。あるいは眠る間も惜しんで自分の自己改革に励むしかないって気持ちにもなってくるね。
はい。だから、ちょっと話が広がっちゃってるけど、そのような――つまり、もう一回言うよ――一つは、まだいろいろあって心に苦悩があっても表面だけでも笑顔を保ちましょう。これはこれで一つの教えです。でもより高度なというか本質的な教えは、そもそも、心からやはりわれわれは常にそういう喜びを持って当たり前であると。その素晴らしい、われわれが今与えられている幸福を、常に忘れないようにしましょうと。
忘れると、神々や、皆さんを守護する存在たちは、すぐ奪うかもしれないよ。「あ、もういらないんだな」と。「せっかく今あげたのに、違うものの方がいいんだね」と。「この価値が分かってないんだな」と。「じゃあいいよ」って取られるかもしれないよ。
だからそうならないように、あるいはもう一つ、もう一回言うけども、そもそも神とか至高者っていうのは喜びに満ちた存在であると。それをもし常に思っているならば、喜びに満ちて当たり前であるとかね。
そういった思いも忘れず、心からの――つまり笑顔っていうのは、「常に笑顔を保て」っていうのは、つまり心にも常に笑顔を保ちましょうと。でもなかなかカルマ的にこのような教えを忘れてしまったりっていうときも、少なくとも周りのことを考えて、表面だけでもいいから笑顔を保ちましょうということですね。
