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解説「菩薩の生き方」第二十一回(5)

三―五.高度な世界を修習する

 我々はこの世の観念、概念で生きています。よって自己観察をするときも、その観念をベースにしているわけです。もちろん、三―四に書いたような境地に達すれば、その観念も消えるわけですが、それもなかなか難しいことです。
 この三―五のやり方においては、より高度な観念によって自己と世界を見るのです。たとえば「私は菩薩である」「私は修行者である」ということを常に意識し続けるとか、あるいはバクティ的に「この世のすべては仏陀(神)の愛である」とか、「私は菩薩として、一挙手一投足を振舞わなければならない」とか、そういうことですね。
 この考えを発展させて、密教においては、自己を仏陀の化身と観想したり、この世のすべてを仏陀の浄土と見たり、すべての音を仏陀のマントラであると捉えたりします。しかしこれらの修行をするには、指導者の適切な指導が必要ですね。
 しかし簡単な意味では、これらのことをすることはできます。常に自分は修行者であり、菩薩であるという自覚の元に、考え、語り、行動するのです。つまりこの場合は、「菩薩・修行者」という念の縄で、心の狂象を縛り続けるわけです。

 そしてこのように心を正しい念で縛り、コントロールすることこそ、「ヨーガ」という言葉の原義でもあります。

 はい。これはさっき言ったことですね。さっきの三―一の付け加えとして言ったことと、まあ同じだね。つまり、もちろんベースとしては、自分の心が悪くなっていないかを修正し続けると。で、三―四はさっき言ったように、観念を超えた大もとの世界に帰っていくと。で、三―五は、観念を超えるんじゃなくて観念を逆利用すると。逆利用して、で、そこで生じる世界っていうのは、実際にはわれわれが将来、高い悟りやあるいは偉大な菩薩になったときに、自然に見える世界、あるいは自然に感じるものがあると。で、今はそこまでいっていないが、意識的にそれをやると。
 意識的に、例えばここで一つ例として挙げられてるのは、「密教においては、自己を仏陀の化身と観想したり、この世のすべてを仏陀の浄土と見たり、すべての音を仏陀のマントラであると捉えたりする」と。で、なんで密教でそういうことをやらせるかっていうと、ほんとはそうだからです。われわれがある種の高度な悟りを得たときには、実際にこの世が神のマンダラと見えてきて、で、すべての音がマントラに聞こえてくると。皆さんは例えばそうじゃないよね。例えば、「ああ、親父のいびきうるさいな」と。あるいは、観念的な意味で「ああ、いい音楽が聞こえてきたな」と。あるいは「工事現場の音うるさいな」と。いろいろあるわけだけど、実際にはその音の本質はすべて神のマントラであるとわかってくる。例えばわれわれが「あの人好きだな」「この人嫌いだな」、あるいは「あの景色は美しいな」「あそこは汚いな」と言ってる全部が、その美醜や善悪を超えた神のマンダラっていうことが例えばわかってくると。で、それは最終的にはそう見えるわけですけども、まだそうなってない段階から――クリシュナの教えとかでもよくそういうのあるけどね。この世をすべてクリシュナと見るとか、なんかいろいろあったよね。ラーマの教えでも、なんだっけ、地球はラーマのお尻なんだっけ(笑)? なんかいろいろあったけど、そういうのも一つの実践だよね。だから、つまりリアルにわれわれはそれがわかるわけではない。リアルに「おお! ラーマのお尻だ!」って見えるわけじゃないけど(笑)、でもイメージによって全部それを浄化するんだね。「ああ、これはただの木じゃないんだ」と。「ラーマの、あるいはクリシュナの体に生えてる、お毛なんだ」と(笑)。

(一同笑)

 御毛【みけ】っていうかな(笑)。神聖なる毛なんだと。例えばね。そのようにして、すべてを浄化していくと。
 あるいはここに書いてあるように、その心構えとして、「わたしは菩薩である」っていう気持ちね。あるいは「わたしは偉大な修行者なんだ」と。あるいは「すべては神の愛なんだ」と。「生じることすべては神の愛である」と。この気持ち、この意識を、二十四時間忘れないようにすると。
 あるいは、「わたしは菩薩として一挙手一投足を振る舞わなければならない」――これはさっき言った、積極的な念正智ね。単純に悪しきものに「ずれてないか?」じゃなくて、「わたしは菩薩として一挙手一投足を振る舞っているだろうか?」と。今生じてる心持ちは菩薩として正しいんだろうか?――と。バクタでもいいけどね。偉大な神のしもべとして正しいんだろうかと。
 もちろんさ、そこでいろんな葛藤や戦いが生じるよね。それはいいことです。うん。つまり、「菩薩としてこれはまずいよな」って思っても、心がすごく欲求してると。例えば菩薩やバクタは、ただ与えられたものを食べる。でもおれはもう一杯食いたいと思ってると(笑)。「これはなんなんだ、どうすればいいんだ」――もちろんそれは供養して食べればいいかもしれない。その程度だったらね。その程度だったら別にいいわけだけど、もっと例えば、自分のけがれやプライドを肯定したいと思う気持ちや、それによって人になんか言ってしまいたいっていう気持ちとか、そういうのと戦うかもしれない。この戦いはいい戦いです。だって普通は戦わないんだから。戦わないでバーッて出ちゃって、「失敗した」ってなるわけだから。そうじゃなくて常に、わたしは菩薩でなきゃいけないんだと。つまり最高のみんなの希望、衆生の理想でなきゃいけないんだと。ね。
 特に皆さんはそのような、ね、誇りをどんどん育てていかなきゃいけない。これから多くの、まだ縁のない人たちがこれから縁ができて、聖なる道、修行の道に入ってくるかもしれない。そういった人たちの見本や理想としてわたしが振る舞わなければ、あるいはもちろん現実的にそのような理想そのものにならなければ、みんなはなかなか自分のカルマを超えることは難しいだろうし、あるいは途中で意気消沈してしまうかもしれないと。だからわたしは一挙手一投足すべて、菩薩としてバクタとして振る舞うことによって、そのような理想になるんだと。これを忘れないようにする。
 で、現実的にはもちろん忘れてるでしょう。忘れても、すぐに思い出す。あるいは何度も失敗して心が萎えることがあるかもしれない。でも萎えてもまた立ち上がると。この繰り返しが大事だね。
 で、それによって――まとめるけども――積極的な正しいイメージ、積極的な心構えを念正智し続けると。これがこの三―五、高度な世界を修習するっていうやつだね。

 もしくは、もちろんベーシックにしっかり修行、教学をはじめとした修行、あるいは瞑想、マントラ、もちろんエネルギーを上げるムドラーとかも含めてやってるうちに――まあムドラー等は物理的にわれわれの意識を高い世界にアクセスしやすくする。でも高い世界にアクセスしやすくしてても、ちゃんとデータが入ってないと駄目なので、教学をし、そして瞑想やマントラも繰り返してると、皆さんのアストラルっていうかある深い意識の中に、まだ最初は小さいかもしれないが、聖なる世界がもちろんできあがってきます。聖なる世界ができあがってくる。皆さんが修行を進めれば進めるほど、皆さんの心の中に――もちろん最終的にはすべて聖なる世界にしなきゃいけないんだけど、まだ一部かもしれないが聖なる世界ができあがってきます。で、その聖なる世界をどんどんどんどん自分の中に増やしていく。
 で、その意識の集中っていうか、われわれは普段、いろんな心の世界があって、どこかにアクセスしています。だから皆さんの心っていうのは、言ってみれば多重人格みたいなものなんだね。うん。あるときはこっちと。あるときは聖者。あるときは鬼のような、心がぐじゃぐじゃな状態と。あるときは凡夫。煩悩一番って感じで凡夫と(笑)。あるときは中間ぐらいの、まあまあ修行に心が向かってる状態。あるときは暗く、人生を悲観してる状態。あるときは修行に燃えて、肯定的に心が燃えてる状態。もういろいろありますよね。それは皆さんの中にあらゆる要素があると。で、放っとおくと、カルマの働きによって、そのカルマの流れによって、いいのが出たり悪いのが出たりしてるだけであると。だからそれを意志の力によって、常に自分の中の最高の理想のデータを引っ張り出し続けると。で、日々の修行によって当然その理想のデータっていうかな、その領域をどんどん広く、確固たるものにしていくと。これがこの、高い世界の修習っていう話ですね。

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