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解説「菩薩の生き方」第二十一回(4)

三―四.心の本質に覚醒し続ける

 実は自己観察を続けていくと、三―三で書いたようなことも超えてしまいます。つまり真実には段階があるのです。プラーナの動きとか心の仕組みとか、三―三で観察されることも真実なのですが、それよりももっと深い真実があるのです。それはここで書くことはできませんが、心の本質、すべての本質といっていいでしょう。そこに常にアクセスし続けるのは強烈な集中力が必要ですが、完璧とまではいかなくても、これに近い意識状態を常に持ち続ける事はできます。この状態では、別に意識しなくても、悪しき思いや悪しき行為等は生じようがないのです。
 しかしこれにも、「本当はそうなっていないのにそういうフリをしている」という心の偽善が入り込む危険性があります。だから一番最初の教えの学習、記憶、その教えに基づいて生きるという基礎がないと、危険ですね。その基礎の元にこの訓練を行なえば、大きな恩恵があるでしょう。

 はい。これは、一つ前の三―三っていうのは、この肉体を中心にした、つまりこの肉体っていうロボット、ね、このシステムを観察すると。観察して理解するプロセスですね。で、それは面白いことに、観察することによって理解できると。――っていうのは、今自分が自分だと思い込んでるものがこの肉体ですから。この肉体のいろんな働きを観察していくと。で、さっき言ったように、例えば歩いてるときに「歩くっていったいなんなんだ?」と。で、ここで、さっき言ったような、まずはロボット的なそのシステムを理解する。理解するっていうか、感じるっていうかな。うん。つまり、さっき言ったように、「ああ、動くときにこのようにエネルギーがグーッと行き渡り、それによって筋肉が今収縮してきてるんだ」と。で、そこに心臓とか肺の動きが、このように――あのさ、こういうのをすごく、なんていうかな、分析して、徹底的にそれをやる修行もあるんだね。ただ、それはやらなくていいけどね。それはまあ時間がもったない。われわれの人生が五十万年ぐらいあるならいいけど(笑)、われわれの人生は短いので、それやって、ウーッて二十年ぐらいやってさ、「わたしはこの太ももの動きを理解した」とか(笑)、

(一同笑)

 「そこまで時間かける必要はない!」と(笑)。
 でも、ちょっと話ずれるけど、まあ、その一つ一つにそこまでやる必要はないけど、全体を、グーッとそういう感じで、さっきの感覚の動きも含めて、感覚の働き、あるいはこの行動の働き等、システムを見てると、そうだな、だんだん表面から奥に入っていく。最初は、繰り返すけど、筋肉の動きとかに目がいってるわけだけど、もっともっと観察してると、いや、筋肉っていうよりもそもそもこれプラーナだなと。うん。プラーナがどんどんわれわれの体を動かしてるんだなと。で、それから例えばチャクラとの関係もわかってくるかもしれない。チャクラが――まあチャクラっていうのはつまりエネルギーの、プラーナが流れるナーディーのセンターですから、そのチャクラを中心にして体中に気の働きが張り巡らされ、それによってこういうふうに動いてるんだなと。「ああ、なるほど、なるほど」と。あるいはこの感覚の働きも、この感覚器官を通じてプラーナが外界とわれわれの、例えば心臓や、あるいは脳に、いろんな、なんていうかな、内的器官があるわけですけども、霊的器官があるわけだけど、それと結び付いて、いろんな経験を行なってるんだなってわかってくる。
 で、これもまだ外側の世界です。で、これをさらにグーッと観察してると、さらに奥に行っちゃうんだね。さらに奥に行っちゃうと、わかると思うけど、それはもう真我とか、あるいは、なんていうかな、あるいは真我までいかなくても、心――例えばヨーガ的にいうとブッディとかチッタとかいわれる、ほんとに深い、つまりこの粗雑な肉体の世界よりさらに深い大もとのわれわれの肉体を超えた形のない世界の方にグーッと心が入っていく。
 で、そっちの方が本当なんだと。そっちの方が本当なんだっていうのは、この、われわれのこの粗雑な体があって、その中に心があるんじゃなくて、あるいは脳に心があるんじゃなくて、そっちの形のない世界がほんとで、そこから生じてる――あの映画の「マトリックス」みたいな感じですけどね――生じてる幻影としてのこの今のボディーがあるんだなと。で、それを今「筋肉が」とか分析してたけども、筋肉等も全部幻であったと。わたしの本質はもっと奥にあったと。
 でもこれもまだ中途段階です。それはアストラルとかコーザルの段階で、で、さらにそこからグーッと――別にこれはだから、なんていうかな、このシステムは、もちろんゾクチェンやマハームドラーとか、あるいはそういう系の修行では一気にその心の本性にグッと集中して悟ろうとするわけだけど、ここでいってるのはそうじゃなくて、体の動きとか日々の感覚の働きとかに観察・集中を向けることによって、その大もと、大もと、大もとっていうのをどんどん観察することによって、とうとうそこまで行っちゃうっていうやり方ですね。
 はい。でもこれもまた、ここに書いてあるように高度な話なので、つまり実際われわれは、肉体ではなく真我であると。それを実際には悟っていないのに、そのような気持ちになって、そんなふりをしてるだけだと、あまり意味がないと。そんなふうにかっこつけてる間にカルマは浄化されず、死んじゃって、結局低い世界に落ちるかもしれない。だからベースには一番目の、何度も言ってる念正智ね。「自分の心が真理から外れてないか」の念正智をひたすらし続けると。で、それをし続けるベースの上に、さっき言ったような、自分の体のいろんな動きの観察、そしてそれを超えた、その大もとにある形のない世界、あるいはそのさらに大もとにある真我に集中し続けられたらもうそれは素晴らしい、ということですね。

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