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解説「菩薩の生き方」第七回(6)

 前にも言ったけど、いい話なんで何回も言うけども――わたしもさっきのお釈迦様じゃないけど、いわゆるバルド経験で、そういう経験をしたことがあってね。それは、ちょっと悪趣というか、非常にドロドロとした苦しい世界のバルドに入ったことがあって。まあ、そこはもうなんとも言えないんだけどね。なんとも言えないっていうのは、別に体を切り刻まれてるわけじゃないんだけど、ものすごく苦しい。なんで苦しいっていうのはちょっと言えないんだけど、表現できないんだけどものすごい苦しい。ウワーッていう世界ですね。で、もう本当に頭がおかしくなるくらいに苦しんでいると。しかししばらくしてふと周りを見渡すと、もちろん自分は最初パニックで自分のことしか見えなかったわけだけど、よく冷静に見ると周りでも多くの魂が苦しんでいることがわかった。で、そこでやっと自分の中のデータが目覚めてきたんです。目覚めてきて、「そうだ、わたしは菩薩だった」と。「わたしは菩薩の修行をしていたはずじゃないか」という――まあ、バルドだから非常に深い意識で混沌としているんだけど、菩薩だったという意識が目覚めてきて。で、「菩薩なんだから自分のそんな苦しみに埋没してる暇はないんだ」と考えて、「みんなを救わなきゃいけない」と思って、「さあ、みんなを救済するぞ!」っていう思いがグワーッて湧いてきた。で、その瞬間、パーッと世界が変わったんです。世界が変わったっていうのは、別に移動したんじゃないんですよ、神々が迎えに来て「よくやりました!」とか言って、馬車に乗せられていったわけじゃなくて(笑)。そんなんじゃなくて、瞬間的に世界が変わったんです。うん。パッと変わって、「あれ?」って思ったら、天のような至福に満ちた世界にいたんだね。
 つまり、「あ、こんだけ思いってのは大事なんだ」と。うん。瞬間でも、「ああ、わたしは自分のことどうでもいいや」と。「みんなを救いたい」って思っただけで世界が変わってしまった。至福の世界になってしまった。
 で、もう一つまた別パターンとしては、これもバルド的な体験でね、ある深い瞑想状態にいるときに、今度はすごい至福の中にいた。至福の中で一点の曇りもない、まあ、言ってみれば神への純粋な愛と、衆生への慈悲に満ちた、素晴らしい境地っていうか至福の中にいたわけだけど。そのときに、本当に――これはもちろんヴィジュアル的な感覚で――本当に一点、つまりその広大なる空の中の、本当にその◯・一ミリぐらい、けがれた感情がちょっとだけ湧いたんです。ちょっと湧いた。それがさ、わたしまあ、あんまりフォトショップとかイラストレーターとか使ったことないから、ウインドウズのペイントでたまに神の絵とか描いてアップしたりしてるけど(笑)、ペイントとかで色塗るときってさ、例えば線に塗りたかったとして、間違ってポンッて空間に押しちゃうと、その区切られた空間が全部バーッて一気に塗られちゃうわけだね。「ああ、全部赤になっちゃった」みたいな、そういうのがあるわけだけど。そういう感覚(笑)。つまり、純粋な、本当に至福の空間だったのが、本当にその大いなる空に浮かんだ◯・一ミリのホコリぐらいのけがれが湧いた瞬間に、そのペイントみたいにその一点からすべてがブワーッて暗黒になった。暗黒っていうか、けがれたっていうか、ドロドロした暗い世界に変わってしまったんだね。だから本当に怖いと思った。
 まあ、これはバルドの話だけど。バルドってのはつまり、そのように一瞬の思いが世界をつくってしまうんだね。一瞬でも慈悲が湧いたらすべて慈悲の世界っていうか至福の世界になるし。一瞬でもけがれた思いが湧いたら、それですべてドロドロした苦しみの世界になるし。でもその苦しみの世界の中で例えば一瞬でも神を思い出したら、瞬間的に神の世界になります。そういう世界なんですね。で、それが、そういった瞬間的な経験だったら「ああ、そういう経験をした」で終わるわけだけど。われわれの人生のカルマの流れの中で、その一瞬の悪しき思いがこれからの方向性を決めてしまう場合もあるし、あるいは逆に一瞬の良き思いが、われわれのけがれた道を全て神聖な道に変えてしまう力も持つと。だから本当におそろしいんだね。だから本当に念正智っていうのは、なんて言うかな、そのときにすぐに結果がわかる道じゃないのでわかりづらいんですけども、本当に真剣に考えて、日々瞬間瞬間の心の思い、あるいはイメージ、あるいは言葉、行動といったものをしっかりと念正智すると。これがまあ非常に重要であるっていうかな。重要であり、かつわれわれに大きなステップアップをもたらすね、教えであると思いますね。

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