解説「菩薩の生き方」第七回(4)
【本文】
「私は衆生の頭痛を治そう」と考えても、かような些細な福善の願いによってすら、人は無量の善福の寄るところとなった。
まして、全ての衆生の限りなき苦痛を除こうと願い、全ての衆生に無量の功徳を具えさせようと願う者においておや。
いかなる衆生の父に、また母に、あるいは神々に、リシに、あるいはブラーフマナに、かような善福の願いが生ずるであろうか(菩薩以外には不可能である)。
これらの衆生には、自利のためにさえ、かような希望は、かつて夢の中にも生じなかった。どうして利他のために、それが起こりえよう。
かような未曾有(みぞう)にしてかつ殊勝の宝なる衆生(菩薩)は、どうして生まれ出るか。
世界の喜びの種子であり、また世界の苦しみの救薬であるところの、宝の心(菩提心)の福善は、どうしてはかりえようか。
ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。まして、一切衆生のあらゆる安楽のために努力するに勝る善福はない。
はい。じゃあ、だいぶ時間過ぎましたが、少しだけ『菩薩の生き方』もいきましょうね。
この『菩薩の生き方』は、『入菩提行論』の解説ですね。解説ですけど、これは書下ろしの解説なので、非常に簡潔に内容の説明がされているので、さらにその説明という感じになりますが、まあ、復習の意味も込めてね、内容を噛みしめるという感じで読んでいきましょう。
【解説】
まず一行目、誰か頭痛で苦しんでいる人がいたとして、その人に対してある人が、「私はあの人の頭痛を治してあげたい。治そう」と考えただけでも、その人には無量の善福が生じるという。
これはオーバーな気もしますが、長いスパンで見れば、オーバーでもないかもしれません。つまりそのような小さな善の願いが徐々に増大していき、しまいには多くの善を積み、多くの功徳にあふれた人になっていくでしょうから。
そしてそれと対比する形で、そのような小さな善の願いですら後には大きな果報を生むのだから、「全ての衆生の苦悩を完全に取り除き、すべての衆生に無量の功徳を得させよう」と決意した菩薩に生ずる功徳は、はかることができないほど大きなものだ、ということですね。
はい。これはわかりやすいですね。読んだとおりですね。これは何度かこういう話は出てきますけどね。つまり、誰か頭痛で苦しんでいる人がいたとして、その人に、「ああ、なんとかしてあの人かわいそうだから治してあげたい」と。「治そう!」って考えただけでも、無量の善福が生じるって書いてある。
これはこの一点だけ取るとそれはオーバーだろうってなるけども、そうじゃなくて、つまりこれはさ、大いなる流れの中で、例えばですよ、皆さんはもちろん人生経験長い人も短い人もいるだろうけど。あるいはカルマが良くて、周りに本当にいい人しかいなかったという人いるかもしれないけど、実際にはもちろん、この世の中はいい人ばかりじゃないよね。いい人ばかりじゃないっていうのは、もちろんいろんな苦しみが多くて、その苦しみなるがゆえに周りにいろんな邪悪なものを振りまいている人もいる。あるいは本当に、前の『シュリーラーマチャリタマーナサ』の「悪人の恩恵」というパートであったけども、「もう、なんとかしてあいつを苦しめてやろう」とか考える人とかね(笑)。あるいは「絶対、あいつらには幸せなんてやるもんか」と。ね。「秋茄子は嫁に食わすな」だっけ、なんだっけ? いろいろあるよね(笑)。なんだっけ? まあいいや(笑)。
(一同笑)
憎んでいる相手にはもう絶対利益を与えないんだと。あるいは憎んでいる相手どころか、他人に対して喜びなんて与えたくない、っていうレベルの精神状態にいる人もいる。で、それはもちろん人間だけじゃなくて、いろんな世界において、まあ、いろんな霊であるとか、もちろん地獄とか動物に落ちている魂の中でもそういう人はいっぱいいるわけですね。それは、もう一回言うけども、それは実際にはカルマが悪くて苦しんでいるからかもしれない。苦しんでいるから、あまりにも自分が苦しくて余裕がなくて、みんなへの利他心っていうのを全く思い付かないと。あるいはそうじゃなくて誰かを苦しめて、その苦しみの相対的な優越感によって自分が安らぎたいとかね。そういう悲惨な意識にいる人もたくさんいるわけですね。
はい。このような、いいですか――つまりわれわれは、魂が落下していって落下しきったときっていうのは、その愛着と嫌悪のもうドロドロとした中にいるわけですね。もう愛着と嫌悪で訳がわかんなくなってて。で、自分がいいと思うものは絶対やりたいと。で、そうじゃなくて、それ以外のものはもう人に、つまり苦しみっていうものはもう人にこう押し付けたいと。このもう、ひどい状態のレベルにいることがある。で、これはみんなもそのパートにいたことがあった。その時代もあったわけだね。ドロドロとその苦しみと執着と嫌悪でいっぱいであったと。で、そっからちょっとでも――これはお釈迦様の伝説としてあるんだけど、お釈迦様はもちろん、昔は、つまり最初から完成者だったわけじゃなくて、もともとは普通の魂だったのが、努力して修行して、お釈迦様として仏陀になったっていわれている。もちろんヒンドゥー教とかではそうじゃなくて、お釈迦様は最初からアヴァターラとして、つまりクリシュナの次の――ヴィシュヌ神がクリシュナの次のフォームとしてお釈迦様になったんだって言い方をしてるけども。それはどっちが正しいかは別にして、一応伝説としてね、お釈迦様が普通の人間で、で、一番最初にお釈迦様がこの仏陀の道に足を踏み入れたのは、お釈迦様が地獄にいるときだったっていうんだね。地獄にいるときに、地獄でもちろん苦しめられていると。もう体を切り刻まれたり、焼かれたり、あるいはドロドロと溶けたマグマのようなところで焼かれたりとか、そういう悲惨な目に遭っていたと。で、あるところで燃える鉄の車――まあ、つまり触るだけで手が火傷するような、しかも重いと。それを引かなきゃいけないと。そういう地獄があって。で、そこでお釈迦様と縁があったもう一人の男と一緒に、その燃える鉄の車を、獄卒に鞭をあてられて引かされてたわけですね。で、お釈迦様はもちろん、自分も大変な苦しみの中にあったわけだけど、ふとそこで良い縁によって、パッと心が目覚める。「本当にこれは苦しい」と。で、隣にいる彼も苦しんでいると。で、「二人でやってもこんだけ苦しいなら、わたし一人が苦しんだ方がましだ」って考えたんだね。そう考えて獄卒に、「わたし一人でやりますから」と、「彼は休ませてください」と言ったんですね。で、獄卒はもちろん、「ふざけるな、駄目だ!」って言って、お釈迦様をさらに拷問したわけだけど。しかしこのときのお釈迦様の一瞬の、「あ、彼はかわいそうだ」と。「わたしが彼の分も苦しめられていい」って考えたこの一瞬の、利他心っていうか、これがすべてのスタートになったっていわれている。ここからお釈迦様は――そのときはそれだけだったかもしれないけども、この小さな利他心がまた生まれ変わり生まれ変わりするうちにだんだん増大していって、で、最終的には全ての魂を救う仏陀としての慈悲に成長したと。この最初のスタートがなかったらそれはなかったっていうんだね。
これと同じで、例えばここの話でいうならば、さっき言ったように本当に人の不幸ばっかり願っていて、人に悪態ばっか付いている人がいたとして、で、その人がいつもだったら、例えば誰かが「頭痛い」と言ってたりしたら、「ざまあみろ」と、ね(笑)、というような人だったのが、ふと、「あ、なんか治してあげたいな」と。うん。「あ、なんかいろいろちょっと探してあげたいな」と。「なんとかして彼の頭痛を治してあげたいな」って思いが生じたならば、それがさっきのお釈迦様の話みたいに、そこからさらなるちょっとした徳が積まれ、あるいは良いカルマの縁ができ、それによってまた次にはより大きな慈悲に結び付き、って感じで広がるかもしれないんだね。よってこのような小さな「他人の頭痛を治そう」というような小さな善の思いであっても、利他心であっても、後には膨大な善福のよりどころとなるといっているんですね。
よって、ここで言っているのは、その小さな「誰かの頭痛を治そう」ではなく、「すべての魂を救済しよう」と。「全ての魂を仏陀にしよう」と。「そのためにはわたしはどんな苦しみを受けても構わない」と。「どんな激しい修行も耐えてわたしは早く仏陀になるんだ」と。「そしてみんなを救うんだ!」っていう発願をした人の得る善福や果報っていうのは、どれだけのものがあるんだっていうのがここの発想ですね。