解説「菩薩の生き方」第七回(3)
はい。まあ、もう一つ別のことを言うと、あそこでのシーターの――まあ、シーターはもちろんさっきも言ったように、人間としての一つの演技をしていると同時に、われわれにいろんな理想っていうか見本を見せてくれているわけだけど。あそこでラーマが海にお祈りをして、三日間断食をしているって聞いたときに、シーターは、ならわたしも断食をすると。つまり、わが最愛の主がお腹を空かせているのに、わたしだけ食べてはいられませんと。
これはラーマの弟のバラタもそういう姿勢を見せてましたよね。つまりラーマが十四年間の放浪期間中は、山の中の木の実とか、粗末な根菜とかを食べると。うん。それから眠るときも、ベッドには寝ずに地面に寝ると。で、「わが敬愛する主がそのような生活をしているならば、わたしはもっと粗末な生活をせねばならぬ」と言って、非常に粗末なものを食べ、で、寝るところも、「我が主がベッドじゃなくて地面なら、わたしはもっと下だ」って言って穴を掘って寝たっていうんだね(笑)。つまりそういう、なんて言うかな、完全にわたしは彼のしもべであり、あるいはわたしのすべて、わたしが従いそして奉仕し、そして敬愛する対象として主があるんだという発想が、自分の人生を占めているっていうかな。うん。この発想ね。これはもちろんわれわれの見本として、この場合はあると思いますね。
これによって自分のさまざまな――いつも言っているけど、自分で向き合っただけでは落ちないけがれであるとか、あるいは――まあ、つまり仏教とかあるいはラージャヨーガとか、いわゆる原始的な修行の場合は、自分の煩悩と向き合い、で、自分の煩悩を分析してどうこうっていうやり方をするわけだけど、もちろんそれはそれで必要なんだが、実際には、皆さんもわかると思うけども、なかなかそれは大変なんだね。特に現代みたいなカリユガといわれている時代においては、自分の煩悩と一つ一つ向き合い分析し落としていくっていうのは、非常に難しいっていうか(笑)。うん。でもそうじゃなくて、わたしのすべては主であると。わたしのすべてはラーマでありクリシュナであるっていうような意識を持ち、それによってそこから生じるさまざまな、自分がやらなきゃいけないこと、あるいはさまざまな聖なる感情によって自然にいろんな煩悩が落ちていったり、けがれが落ちていったり、あるいはいろんなことが自然に制限され、まあ聖なる生き方にトランスフォームされていくっていうかね。うん。これがバクティの、とても、まあ、いいところであり、なんと言うかな、このカリユガにおいては最もバクティがわれわれを簡単に速やかに最終地点に導くといわれているんですが、それはそういうところがあるんだね。
もちろんそのバクティの発想というかエッセンスを理解できない人、もしくは直感的にでもピンと来ない人には、なかなかこの道は難しい。でもそうじゃなくて皆さんみたいに、心の奥底でなんとなくその感覚がわかる人。「あ、そうだ。神に投げ出すんだ」と。「あ、わたしは神のしもべなんだ」と。「わたしはきっと、何度も生まれ変わって神のために生きてきたんだ」っていう思いがちょっとでもある人は、その思いに自分を没入させるだけで、皆さんが何億生も、ねえ、ラージャヨーガとか仏教とかやって壊せなかった(笑)、けがれを、一瞬で壊せるかもしれない。うん。これがバクティの素晴らしさですね。