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解説「菩薩の生き方」第七回(2)

 『ラーマクリシュナの福音』にもよく出てくるけど、まあ、まさにこの『ラーマーヤナ』のラーマとか、あと『クリシュナ物語』のクリシュナとかに対して、多くの馬鹿な、まあ、言ってみれば真理をわかっていない学者や、あるいは宗教家がよく議論するっていうんだね。つまり、「ラーマは至高者なのに、なんであんなにああいう感情を表わしたんだ」と/か、「なんであそこでああいうふうに怒ったんだ」とか、そういう議論というかな――がよくあったらしいんですね。よくそれが『ラーマクリシュナの福音』の中でも題材として挙げられている。で、もちろんそれは今言ったように、実際にはその完全なる存在が、まあ演技をしているだけなんだけども、ただここで一つ言えるのは――ちょっと簡潔に言いますね。例えばこうこうこう、このような意味でラーマの嘆きは意味があり、肯定されるとか、あるいはこうこうこうだからこのラーマの怒りはこういう意味であって、それは理想的な怒りであるとかいうことでもないんだね。じゃなくて、ラーマの怒りはすべて純粋に神聖なる怒りなんです。で、ラーマの嘆きはひたすら神聖な嘆きなんです。つまりこの発想っていうのは、こうこうこういうことをしたからラーマは尊敬できる、こうこうこうだからラーマは素晴らしい、ではないんです。ラーマだから素晴らしい(笑)。ラーマがなすことだからそれは完璧である。ただそれだけなんだね。
 つまりわれわれは、いつも言うけども、われわれの狭い、われわれ側の観念、われわれの知識に、例えば至高者を押し込めようとする。つまり、わたしの理解ではこうこうこうであると。で、これに合わないからこれはわたしは理解できない。――当然これは自分の知性とか、あるいは智慧の範囲以上のものを理解することは一生できない、この人は。うん。そうではなくて――もちろんその辺のわれわれと同じレベルの人を見る場合はそれでいいんですけども。完全に最初からわれわれを超えている、超えているどころか完成者であると見る者に対しては、また全然違う見方をしなきゃいけない。
 もちろんこういう発想は、現代人は非常に否定しがちです。だからいつも言うけども、特に仏教とか、あるいは現代的に教えを広めようとするダライ・ラマ法王とか、チベット仏教とかの人とかは、全く逆のことを言います。逆のことっていうのは、まず自分の知性を大事にしなさいと。ね。つまり自分で理解したことのみを受け入れなさいと。自分で納得して、その教えを取りなさい。あるいは自分の師匠の言うことであっても、あるいは聖典に説かれていることであっても、納得しないんだったらそれはやってはいけない、みたいな言い方されるわけだけど。これは全部本当はトリックなんだね。そんなことやってたら、何度も言うけども、われわれはその枠から出られません。うん。自分の納得することだけを受け入れてやってたらね。
 そうじゃなくて、もう一回言いますよ。――ラーマは完成者であると。この大前提がまず最初にある。で、そこから生じる例えばラーマのさまざまな――だからこれは皆さんなら理解できると思うけど、例えばそのようなバクタ、本当のバクティを持っている人が見たら、ラーマの一挙手一投足がまさに歓喜であって、感動なんだね。うん。つまり、例えばラーマがオロオロしたと。それはもう歓喜(笑)。「ああ、ラーマがオロオロしている」と(笑)。「わー!」って感じなんだね。
 もう一回言うよ。普通の人間がオロオロしているのを見たら、われわれは「あっ、かわいそうだ」と思うか、もしくはちょっと蔑むか、「あっ、なんであんなことでオロオロして」って見るかもしれない。それはそこに理由があるから。うん。「きっと彼はこういう心の弱さがあり、こうでこうで」って理由があるから、当然それに応じた感情とか見方がわれわれには出るわけだけど。そうじゃなくてラーマは完成者ですから。完成者がなすいろんな表現っていうのは、われわれが理解できる世界ではない。じゃあそこには何があるかっていうと、完璧な純粋さしかないんだね。完璧な純粋さの表現としてそれが怒りとして出ようが、嘆きとして出ようが、あるいは――もっと極端に言えばね、くだらない言葉として出ようが、なんであろうが、そこには、なんて言うかな、それに信を持つ者にとっては歓喜しかないと。このような完全肯定的な信がないと、この壁は打ち破れません。この壁はって言っているのは、この知性の壁っていうかな。
 何回かここでは言っているけども、ここに本当に大きな壁があります。現代人は、さっきも言ったように、まず自分で理解したがる。あるいは自分の観念や知性の枠組みですべてを処理したがる。もちろんこれはある程度まではいけます。ある程度まではいけるけども――それから、このやり方は、レベルは低いが間違う可能性も少ないと。で、そうじゃなくて完全に自分を明け渡す道を取った場合、当然、その明け渡した相手が間違ってたら、これは大失敗することになるよね。うん。つまり例えば変な宗教とかに入って、その教祖様にすべてを明け渡したと。その教祖がちょっと変な人だったら(笑)、その弟子は悪業を積むことになるかもしれない。あるいは道を誤るかもしれない。しかしそれも、その人がそのような教祖に出会ったっていうこと自体が一つのカルマであって。
 で、そのような生き方をしない限り――いつも言っているようにね、そのような生き方をしない限り、われわれが、われわれのカルマを超えて、あるいはこの、まあ知性という名の無明の壁を超えて、本当の意味での智慧に至ることはまず不可能です。
 だからこれは、もう一回言うよ――例えばその人が結果的に間違った道に付こうが、あるいは正しい道に付こうが、こっちの、こっち側の意識として、明け渡すと決めた対象に完全に自分をゆだねると。で、わたしは無智であると。つまりナーローパのように、完全にわたしは無智であるから、完全にそのわたしが明け渡した対象に対しては全肯定の意識を持って突き進むと。これはさっき言った、自分で納得して進む道に比べたら、大いなる可能性を持つと同時に、なんて言うかな、大きな危険性もある。しかし、この道でないと突っきれません。で、この道で――もう一回言うと、突っきろうとして、しかし自分のカルマが悪くて変な世界に入ってしまうこともあるかもしれないが、この道をひたすら突っきる人は、絶対最後は至高なる者に行き着きます。じゃなくて、明け渡しをせず、全部自分の中で――まあ、ここには自分の心の弱さとか、恐怖とかがあるわけだけど――自分の中で処理して納得して進もうとする者は、さっき言ったように、まあ、自分の範囲内でやっているわけだから、大失敗はしないけども、しかしまあ、その人がせっかくこの偉大なダルマに巡り合っても、あるいはせっかくこの至高なる教えに巡り合ったのに、まあ、その本当の意味での果報というかな、本当の意味でのエッセンスは受け取れずに終わってしまうだろうね。
 はい。だからちょっと今は、まあ激しいことや厳しいことを言ったけども、もう一回戻すと、すべてそのような発想でこのバクティの、あるいは信仰の物語っていうのはあるんだね。だからもう一回言うけども、別に、こうこうこうだからとか、あるいはこのようなダルマに基づいてとかいう意味でラーマが嘆いたり怒ったり、あるいはいろんな――まあクリシュナももちろんそうですよ。なんでクリシュナあそこであんな悪戯するんだとかね(笑)、なんであんな嘘つくんだとかね(笑)。もちろんそれは理論付けられないことはない。うん。例えばお母さんに宇宙の真実を見せるために、「泥食べてない」って嘘をついたとかね。理屈を付けられないことはないが、そうするとやっぱりクリシュナの本当の意味での純粋性を見失います。「ああ、そうか。クリシュナはお母さんに、つまり嘘を付けばお母さんが自分の口の中を見ると思って、そういう意味で嘘を付いてお母さんに自分の正体を見せたんだな」って思えばそれはそう言えるかもしれない。しかし実際はそうじゃないんだね。そんなわれわれが(笑)、われわれの頭で理解できるような因果、理由の中にクリシュナがいるわけがない。うん。だからそうじゃなくて、嘘を付いたこと自体がクリシュナの歓喜に満ちた絶対性なんです。例えばだけどね。そういう目で、最初に自分が規定した至高なる存在を全肯定して受け入れて、で、その中に神性を見いだす訓練っていうかな、見方をしないと、まあ、こういった神のリーラーっていうかね、神の物語からの本当の意味での恩恵というのはね、なかなか受けられないと思うね。

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