解説「王のための四十のドーハー」第四回(8)
【本文】
花の香りには形がないのに
それははっきりと広がりわたる
形なきありのままの存在も、それと同じ
マンダラの輪は知られている
はい。これはまず例えとしては――まあ、これさ、だいたい全部、分かると思うけど、だいたい最初の方で例えをいって、そのあとに真実をいってるわけだけど。例えとしては、花の香りね。これは花じゃなくてもいいわけだけど、いわゆる香りには――まあ現代的には、いろんな科学的にね、香りの正体とかいろいろ解明してるかもしれないけど、例えなので、一般的には香りっていうのは形がない。花の香りとかっていうのは、何か見えるわけではない。しかし、例えばこの部屋全体にその香りが行き渡ってるとしたら、ここにあるとかあそこにあるとかじゃなくて、目に見えないけども充満してるっていう状態があるわけだね。で、これは、
形なきありのままの存在も、それと同じ
マンダラの輪は知られている
これは、仏教でいうところの、まあ心の本性、あるいはダルマターとかいうんだけどね。ターっていうのは「ありのまま」とか「本質」っていう意味ですが、つまり存在の本質みたいなものがある。これは、はっきり言うとヒンドゥー教やヨーガのいうところのブラフマンと全く同じです。
これも何回か言ってますが、ラーマクリシュナの面白い言葉で、「唯一けがされていないもの、それがブラフマンだ」と。それはなぜかというと、ヴェーダとかそういう聖典の教えも、さまざまな言葉も、すべてけがされてしまったと。なぜけがされたかっていうと、人間の口は不浄だと。不浄だから、例えば経典を読むとか、教えについて語った瞬間、すべてはもうけがされてるんだね。でもブラフマンだけがけがされていない。なぜなら、ブラフマンを説明できた者は誰もいないからだと。ね(笑)。こういう面白いことを言ってる。つまり、あらゆる概念や言葉を超えた、この宇宙のすべてに広がり渡ってる本質みたいなものがある。それをまあヒンドゥー教ではブラフマンっていうんだね。まあ仏教ではダルマターとかいろんな言い方をする。
あるいはよくこれ、仏教でもヨーガでも共通的にね、例えばタット、あるいはターとかタターとかいったりするんだね。これは、例えばタットってどういう意味なのかっていうと、英語の「it」と同じで、つまり「それ」、あるいは「That」、「それ」とか「あれ」とかいう意味なんですね。つまり、究極の真理っていうのはもうそれでしか表わせないんだね。「それ」と言うしか言いようがないっていうか。
例えば今言った「宇宙に遍在して」とかいうのも実は間違いなんです。一切は空で――それも間違いなんです。もう言えないんだね。表現不能な世界がある。だからもう「それ」としか言いようがない。で、それが、まあ一応便宜上の言い方をすると、花の香りのように、形はないのにすべてに広がってるような状態、存在っていうかな、それがこの宇宙の本質ですよと。
はい、で、「マンダラの輪は知られてる」っていうのは、実は――まあ、つまり密教的な表現でよく、「この世を神のマンダラと見なさい」と、「ブッダのマンダラと見なさい」っていうわけだけど、つまりそれは、さっきから言ってることと全く同じで――これはだからバクティヨーガとすごく通じるんだね。バクティヨーガの発想とこういう密教の発想ってすごく似てます。つまり、この世は神の王国、というよりも神そのものだと。この世界そのものはね。あるいはブッダの心そのものだと。で、それはブッダのマンダラなんだと。つまり一切否定されるべきものはないし――つまりマンダラっていうのは、ブッダの世界を表わしたのがマンダラなわけだけど、それは特別どこかにそういうマンダラで表わされる世界があるんじゃなくて、この世界そのものがもうブッダのマンダラなんだと。
これはヴィヴェーカーナンダとかも面白いことを言ってる。つまりすべては役者だと。役割だと。例えば、あなたの前に嫌な悪人が現われたと。ああ、彼は今生悪人の役を買って出ただけだと。ね。そういう言い方をしている。だから安心しなさいと。かみつかないからと。だって演劇ってそうでしょ? 例えばライオンの役をした人が来てね、ウワーッてやって来ても、役だって分かってれば別に安心じゃないですか。ほんとにかみつくわけではない。それと同じように、どんな悪人が目の前に現われても、本質的にはですよ――本質的にはっていうのは、この肉体は何かやられるかもしれないけど、魂レベルではなんの害も受けないんです。安心しなさいと。で、その相手も、本質的な悪人ではない。役割なんです、ただの。
これはだから『マハーバーラタ』とか見るとそれもよく分かるよね。何回か言ってるけど、『マハーバーラタ』の登場人物っていろいろ悪人とかいいやつとか、あるいはトラブルメーカーとかいろいろいるわけだけど、トラブルメーカーのビーマっていうのがいて。そのビーマっていうのはすごく暴れん坊で、すぐにいろんなトラブルを起こして、それでなんか戦争が起きちゃったり、いろんなことが起きるんだけど。でも最後の最後の種明かしみたいな感じでいうと、実はこのビーマもクリシュナの化身だった。つまり役割なんだね。あるいは最も最悪のドゥルヨーダナっていう王様がいるわけだけど、その彼は死んで天の世界に生まれ変わってるんだね。あんな悪人なのに(笑)。つまり彼は役割を全うしたんです。
ラーマクリシュナも同じような面白いことを言ってる。つまり、この世を面白くするには悪人も必要だと。このリーラー、神が作ったこの人生のリーラーっていう劇を面白くするには、いろんなタイプの登場人物が必要なんだと。で、実際はもうちょっと深いことを言うと、つまりわれわれのカルマの浄化であるとか、われわれのが真実に気付くためのセッティングがいろいろされてるんだね。で、それは一切無駄はないんです。だからマンダラなんです。
で、それは実は――だからちょっと違う目で見ると、みんながわたしを助けてくれる神であり菩薩なんです。例えば嫌な上司が現われてバーッて嫌なこと、嫌味を言ってくると。これはまさに偉大な菩薩なんです。わたしのカルマを浄化し、あるいは例えばわたしに慈愛の訓練をさせるために現われてる菩薩なんです。だって、いつも言うけどさ、周りに優しい人しかいなかったら慈愛の訓練できないからね。だって優しい人に愛を向けるなんて当たり前じゃないですか(笑)。じゃなくて自分を憎む人や自分に害を与える人を心から愛せてこそ、ほんとの意味でそれは慈愛と言えるわけだね。じゃあその訓練はどうするんですか。ほんとにわたしをいじめてくれる人が現われないとそれはできないんだね。
で、これはシャーンティデーヴァもそういう同じようなことを言ってるね。シャーンティデーヴァってやっぱりすごく論理的に、隙がない組み立てをするわけだけど、例えば、いや、わたしの嫌いなあの人は、別にわたしのことを成長させようと思って怒ってるわけじゃないと。ただ怒りの行為を自分にぶつけてるわけだから、そんな人に感謝する必要はないじゃないですかと。これに対する反論として、いや、それは違うと。もしこの例えば上司が、わたしを成長させようと思って怒ってくれてたとしたらですよ、それは修行にならないんです。だって、それはちょうど、まあシャーンティデーヴァの例えで言うと、まるで友情にあふれた医師のようになるから。例えばその友情に例えばあふれた医師がね、例えばMさんが病気で、「ああ、じゃあ、ほんとにMさんのことが心配だから、今それを切ってあげよう」って言って、麻酔を注射して切ってあげると。このときに例えばその麻酔の注射の痛みとか、あるいは切ったそのあとの傷口の痛みとかっていうのはね、痛いけどもそれは感謝するでしょ。いや、先生がわたしのことをほんとに考えて手術してくださったと。ほんとありがとうございますと。これじゃあ慈愛とか忍辱の修行にならないんです。つまりそうじゃなくて、「なんでこんなことやってくるの?」っていうようなシチュエーションが必要なんだね。「あ、この人はわたしのためを思ってくれてる」っていうシチュエーションだったら全然修行にならない(笑)。だから、役割として、怒りをぶつけてくれるような存在が必要なんだね。あるいは誰がどう見てもこいつ悪人じゃんっていう存在が必要なんです。その人をも愛せるかどうかっていうようなシチュエーションが必要なんだね。そういう意味で言うと、その人もまさに菩薩なんです。
だからすべてが神のマンダラであって、すべての登場人物が、実はいろんなふうに、役者としてね、いろんなふりをしてるけども、実は菩薩なんです。実は神の化身なんです。そういう意味でいったらね。だからそういう意味でいったら、自分以外のすべての人を神の化身と見る。この世界すべてをマンダラと見ると。そういう見方っていうのは、とても高度な、まあ真実の見方なんだね。
はい。で、われわれが悟るとその本質がほんとに分かる。あ、それは比喩じゃなくてほんとにそうだったんだなと。すべてに真実っていうのが行き渡ってると。で、そもそもこう見なさいとかじゃなくて、ほんとにこの世界は神やブッダのマンダラであったって分かるわけだね。ただまあ実際にはわれわれはまだそこまで行っていないので、われわれが挑戦、トライをまずすべきこととしては、今言ったようなことを思うような努力をしたらいいね。この世界はすべてがマンダラだと。この世界はすべて実体がないと。演劇のようなものだと。つまり演劇の中で、みんなが役割を演じていると。しかもその役割っていうのは、まあ、わたしも何かに前に書いたけども、脚本・監督は神なんです。ね(笑)。脚本・監督、あるいは配役っていうか、全部神です。神がセッティングしてるんだね。っていうことは、全部わたしのためなんです。わたしのために用意された、大いなる演劇なんだね。だからわれわれはその中でその演劇を楽しみながらも、そのすべては実は神の化身なんだっていうような目で、感謝してね、すべてを見る訓練をしなきゃいけない、っていうことだね。
はい。じゃあ、ちょっとですね、今回のテーマは難しいっていうか、あまりやり過ぎても食傷気味になるので、今日はいったんこれで終わりにしましょう。
わたしの主観では、今日の話っていうのは多分、まあ、かなり皆さんの心の、ある深い部分にはね、何かヒントが植え付けられたんじゃないかと思いますね。
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