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解説「王のための四十のドーハー」第四回(6)

【本文】

ミツバチは知る
花の中に蜜が見出されんことを
輪廻もニルヴァーナも捨ててはいけない
無智な者が、それをいかに知るか

 はい。まず、

ミツバチは知る 
花の中に蜜が見出されんことを

 これは何を意味してるのかっていうと、これはですね、ここに出てこないけど――この話の背景には、ミツバチとカエル、この二つが登場してるといわれています。これはまあ、サラハの詩ってほとんど日本では出てないんだけど、アメリカとか欧米ではよく翻訳されてて。で、その説明とかもいろいろする人がいて。で、伝統的にここは、ミツバチとカエルの物語として説明されるんだね。ミツバチがいて、カエルがいますと。まあカエルじゃなくてもいいとは思うんだけど。で、ここの表現っていうのは、花畑とか、あるいは花のあるところがあって、で、その花の中には蜜が隠されている。でもそこに住んでるカエルはそれを知らないんだね。つまりそこにおいしい蜜があるっていうのを全く知らない。で、ミツバチだけが知っている。
 そしてもう一つの表現っていうか比喩としては、カエルというのはジャンプできる。でも空は飛べないんだね。でもミツバチは自由に空を飛ぶことができる。
 はい。で、何を言ってるのかっていうと、「花の中に蜜が見出される」――つまり、そのカエルとミツバチ、二人共この花園に住んでるんだけど、カエルにとっては花というのは無価値なものなんだね。つまりその美しさもよく分かんないし、蜜のことも知らないから、なんか茂ってんな、ぐらいにしか思わない(笑)。で、自分は虫とかを食って生活してるわけだけど。――で、この比喩においては、カエルは蜜が嫌いなわけではない。カエルは甘い蜜も大好きなわけだね。でも、自分の住まいにそれがあるっていうことを知らない。ミツバチだけが知っている。そして、ミツバチは自由に空を飛び回ると。ね。
 これもちょっと比喩として難しいかもしれないけど。何を言いたいか分かるかな? だいたいね、想像できると思いますが、つまり、われわれが目指すニルヴァーナ、あるいは天の世界、それはもともとこの世にあるんだっていうことですね。つまりわれわれの心が開き、目が開いたならば、この世は、至福の神の世界に変わるんだと。
 つまり、これはよくいわれることだけど、これはわたしも昔、瞑想修行で経験したことがあるんですが――まあ、これは前に言ったかもしれないけど、わたし、瞑想でいろんな世界の経験をしてね、で、あるとき、地獄みたいな世界の経験をしたことがあった。ものすごい苦しい世界で、で、自分も、瞑想してるわけだけど、その世界にガーッて入っちゃって。で、すごく苦しいわけだね。「うわー! 苦しい!」と。で、最初はあまりにも苦しいから、なんていうか、もう精一杯だったわけだね。「うわー! 苦しい! 助けてくれ!」っていう感じで精一杯だったんだけど、ふと、その中で周りを見渡したら、自分以外にも苦しんでる住人がいっぱいいるんだね。で、もちろん自分もすごく苦しかったんだけど、普段からこういろいろ学んでた慈悲の教えとかがよみがえってきて、自分も苦しいけどみんなも苦しんでると。だからわたしはこんな自分の苦しみに没入してる場合じゃないと。みんなを救いたいと。「さあ、みんなを救うぞ!」と。「さあ、みんな、なんとか救われてくれ! うおー!」って思った瞬間、世界がバッと変わったんです。で、パーッと素晴らしい至福の世界になったんだね。
 で、それを実体験したときに、「あっ!」と分かったことがあった。ね。つまり、例えばわれわれが地獄に落ちるとか天に行くっていうことは、ここに地獄っていうのがあって、ヒューッて行くとか(笑)、天の世界にポーンと行くとかいうレベルの話じゃないと。つまり――ちょっとまた言い方を換えるとね、ちょっとストレートな言い方をするよ。――さっき「時間はない」って言ったけども、同様に場所もないんです。われわれにはここしかない。変わってるのはわれわれの心だけなんだね。心が変わることによって世界が変わってるだけなんです。地獄に連れていかれたとか天に連れていかれたとかいうことではない。われわれの心が変わることによって、世界は心の表われにすぎないから、われわれの心が愛に満ちれば、この世界は天に変わるんだね。われわれの心が殺伐とした意識に満ちれば、この世界は地獄に変わる。だからよくいわれるように、地獄を見る者はどこに行っても地獄を見る。例えば人が嫌いでいろんな不満を言ってると。ちょっとこの人こうだ、この人ああだ、ちょっと替えてください、部署替えしたいんですと。部署替えしても絶対不満を言います(笑)。なぜかというと、その人の世界だから、それがね。うん。どこに行ってもそういうその不満の対象は見える。で、逆に、「ああ、あの人もいい人だな、この人もいい人だな」――みんなのいいところを見つけられて、で、それでその喜びに浸れるタイプの人は、どこに行ってもそういう世界を形成できるわけだね。つまりすべてはその人の心がつくってる。
 はい。で、その、なんていうかな、限定的な心の状態によって、われわれはこの世界を、これくらい幸福だとか、これくらい不幸だとか、いろいろな目で見るわけだけど、じゃあ、その限定を全部取り払ったらどうなるのか。ストレートにあらゆるものを取っ払ったら、この世界なんなんですかっていったら、まさに至福そのものなんです。これはまさにバクティヨーガでいってることと全く同じ。この世はもう、もとから至福なんです。つまりここで蜜と表わされるようにね。この世は喜びの世界でしかない。
 ちょっと、今日の話っていうのはかなりストレートな話なんで、皆さんが理解できるかどうかは別にしてストレートな話ばっかりしてるけども――いいですか、バクティヨーガ的に言うならば、神の心の世界、神の心の現われによってできたのがこの世界であると。神がつくった世界が至福でないわけがない。ね。あるいはバクティヨーガ的に言うならば、この世界っていうのは至高者の一部にすぎない。あるいは至高者そのものにすぎない。よく言うように、例えば、あれもこれもこれも、この世界そのものが全部クリシュナだと。だとしたら全部至福でないわけがない。ね。ここ、これが至福でこれが至福じゃない、じゃなくて、もう全部至福なんだね。ここに存在してること自体が至福であって、目に見えるものすべて神であって、すべてが至福だと。ね。「神はどこにいるんでしょうか?」「え、神でないものが何かあるんですか?」と。ね(笑)。こういう世界だね。一切は神ですよと。一切は至福ですよと。一切は真理ですよと。これに気付いた者にとっては、どこに行く必要もないし、何かを探す必要もない。この世界が、あるいはこの世界で起きるすべての物事が、神の愛だと。
 もちろんね、それは最高の真理です。だから、そこまで行くには、まずわれわれは、努力して、そのような発想を身に付けなきゃいけない。で、いつも言うように一番いいのは、バクティヨーガの世界なんだね、ほんとはね。つまり「さあ、ただ神だけがお与えになり、神だけがお奪いになるのです」と。あるいはいつもよく言うように、ユクテスワの言葉で、「人間は、神と完全に心を同調させるまでは苦しまなければいけない」と。「なぜならば、神の愛とか智慧っていうのは、人間の利己的知性をはるかに超えている」と。つまり人間っていうのは利己的知性、勝手につくった概念によって「これは良いのだ」「これは悪いのだ」――ここにはまってる。さっきから言ってる、なんていうかな、さまざまな概念的な観念の中ではまってるわけだね。それによって目の前にある蜜が見えないわけだね。全部自作自演なんです、いつも言うように。自作自演で「こうなったら駄目なんだ」「ああ、こうなった! うわー!」って言ってるだけなんだね。そんなのは取っ払って、純粋に、素直に、ストレートにこの世界を味わったならば、そこには至福しかないんですよと。
 でももちろんそれは、頭でそれを聞いても、われわれはカルマに今縛られてるから、すぐにはそう見れないんだね。すべては至福ですよっていわれたって、だって、「いやあ、わたし昨日会社リストラされたんです」と。ね。「恋人にふられたんです」と。あるいは「今病気で苦しいんです」と。「どこが至福なんですか?」と。いや、それは全部あなたのカルマとも言えるけども、それが苦しいっていうのもあなたの観念にすぎない。といってもいきなりは悟れないから、じゃあ、まずはものの見方を変えましょうと。すべては神の愛だと。良いことも悪いことも、神の愛だと。ただ神だけがお与えになり、神だけがお奪いになると。それをまずは理解しましょうと。ね。苦しいかもしれないけど、その考えでまずはいきましょうと。この練習からまず始めるわけだね。だからまだわれわれは悟ってないから、いろんなことで苦しんだり喜んだりする。これは避けられない。でもそれを今言ったような真理の概念で見る訓練をする。例えば今言ったように、会社をリストラされたと。苦しいと。でもそれを、神の愛と見る。これをやったのは会社の社長ではない。神だと。神がわたしから職を奪ったと。ああ、ほんとにありがとうございますと。ほんとは苦しいんだけど、ああ、ほんとにありがとうございます。あるいは恋人にふられたと。これも神が奪ったと。で、神のことを完全に信じる。わたしはなぜ今、恋人を奪われたのか。恋人を奪われることが、どのようにわたしの幸せにつながるのか、今のばかなわたしには全く分からないが、でも神を信じてるから、奪われることがわたしに必要だったんだろうって考える。そういう意味で、「ああ、神よ、本当にありがとうございます」と。「よくわたしは分かりませんが、あなたが恋人を奪ったからには、わたしの幸せを願ってくれてるんでしょう」と。こういう気持ちですべてを生きる訓練をするんだね、最初はね。で、それによってだんだん扉が開かれていきます。それによって本当に最終的には、理屈ではなくて、あらゆることに至福を見いだせるようになってくる。
 つまり、いつも言うけども、仏教とかヨーガが到達する地点っていうのは、条件を超えた幸せなんだね。だから条件に左右されてるようじゃ全く駄目なわけです。「こうなったら幸せ」とか「こうなったら不幸」とか、「こうなったらわたしの幸せは崩れる」とか、そんなんじゃ駄目なわけだね。何があっても壊れない幸せを見つけなきゃいけない。で、それは一応は、なんていうかな、システム上はそういうものを自分の中につくっていくっていうイメージがあるわけだけど、でも真実を言うと、自分の中にそういうのをつくるというよりは、もともとそうなんです、世界は。それに気付けばいいだけの話なんだね。
 はい。これがここのミツバチの例えだね。
 で、もう一つの、今言った心の自由性ね。これを表わすものとして、ミツバチが自由に飛べるということと、まあ関係してきます。つまり、そのような概念から解放された、「これがいいんだ」「これが悪いんだ」っていう概念から解放されて、この宇宙がもとから完全に至福であるっていうことを悟った者にとっては、一切が自由になるんです。一切が自由になるっていうのは、もちろん精神的な意味でね。もちろん、なんていうかな、ミラレーパとかああいう大聖者とかは、現象的にも自由だったわけだけど。つまり変身したりとか消えたりとかもできたみたいだけど、そこまでいくかどうかは別にして、精神的には完全に自由になる。つまり、何にもとらわれない、何にも苦しめられない、その人を誰もとらえることはできない、っていうような状態がやって来るわけだね。

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