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解説「王のための四十のドーハー」第六回(9)

 で、この特殊な意味としては、これはですね、クンダリニーヨーガとかに代表される、いわゆるエネルギーのヨーガのことを言っています。じゃあ何を言ってるのかっていうと、これはちょっと、なんていうかな、この詩自体は非常に少ない言葉なので、これからその類推することはちょっと難しいんですが、一応伝統的な説明で言うとね、本当の悟りや、あるいは慈悲とか菩提心が伴わない、ただの物理的な行法のことを言っています。
 つまりこれは、例えばヒンドゥー教や、あるいは仏教でもそういう人たちがいたかもしれない、あるタイプの人たちのことを指しています。つまり、もうちょっと現実的に言うと、例えば皆さんのパターンで言うとね、教学しましょうっていっても全く教学しない。菩提心とかいわれても、「おれは慈悲とか全然興味ない」と。あるいは悟りとかいっても、「いや、悟りとかもおれは興味がない」と。ムドラーとかの行法ばっかりやってると(笑)。例えばね。あるいはエネルギーを使った修行ばっかりやってる。「おれはこれは好きだ」と。「やっぱり気の流れが」とかね。もちろんね、分かると思うけど、それ自体は悪いことじゃないんだよ。気の流れの修行や、ムドラーとかの行法は悪いことじゃない。しかしそれはあくまでも、土台があって初めて悟りの道具となる。
 だから、いつも言うけども、チベット仏教のシステムっていうのはそういう意味では、すごくシステマティックなんだね。何回か言ってるけど、チベット仏教のシステムっていうのは、まず第一段階、現世否定です。現世否定っていうのは、徹底的に戒律を守り、あるいは現世放棄だね。徹底的に現世っていうものをすごく否定するんです。すべては苦だと。あれもこれも修行の邪魔だと。なんでかっていうと、まず自分がそこにあまりにもとらわれちゃってるから、まずそれを引っぺがすんだね。苦だ、苦だ、と。これも苦だと。いや、わたしにはこれはいらないと。修行だけでいいんだと。ね。で、これがある程度固まってきたら、次にやっと、慈悲の教えに入る。すべては苦であり障害であるが、でもわたしは衆生を救わなきゃいけない。つまりこの放棄の教えがなくいきなり慈悲に入ると、欲望の方が勝っちゃうんだね。で、それで全く慈悲が、なんていうかな、働かないっていうか。つまり欲望を満たしてるのか慈悲を実践してるのか分かんなくなってしまう。だからまず欲望を断ち切り、そして慈悲を高めていく。そして、空の教えを学びます。つまり一切は空ですよと。一切は実体がないんですよと、心の現われですよ――こういうことを徹底的に学んでいく。これも、一番最初から空だとか言っちゃうと、さっきも言ったように空だからじゃあなんでもやってもいいのかってなってしまう。じゃなくて一番最初は徹底的に、二元的にね、これは良くてこれは悪いと。悪いものを捨てると。ここから入るんです。で、それがある程度固まった段階で「でも本当のことを言うと一切は空なんだよ」という教えと、それから、一切は空ではあるが、しかし、その実体のない世界で苦しんでる衆生を救わなきゃいけない、という慈悲ね、菩提心。これを高めていく。
 そしてその次にやっと密教の世界に入ります。密教の世界に入るとまずその人は最初に、さまざまな準備的な修行、まあマンダラ供養とかヴァジュラサットヴァとかそういうのを行なったのちに、あるいは礼拝とかね、帰依の修行とかを固めたのちに、ちょっとさっきも言いましたが、神に変身するような瞑想をひたすらやります。つまりこのイメージの世界を徹底的に浄化していくんです。で、イメージの世界の浄化がある程度終わった段階で、つまり最後の最後のプロセスで、クンダリニーヨーガに入ります。つまりムドラーとか、エネルギーを上げたり下げたりっていう修行に入るんです。つまりこのシステムっていうのは、もう、なんていうかな、準備万端整えてからそこに突入するんだね。だから失敗がないと。でもそうじゃなくて、そのような例えば教えもない、戒律もない、空の教えもない、菩提心もない状態で、テクニック的にクンダリニーヨーガをやる人たちがいっぱいいたわけですね。現代でもいるかもしれない。そういうクンダリニーヨーガ的なものに興味がすごくあってね、でも悟りとか慈悲とかはあんまり関係ないと。その場合の、そのタイプの人に対する忠告だね、これはね。
 それによってもいろんな、なんていうかな、限定的な至福が生じたり、限定的に光の経験したりとかするかもしれないが、それはただの物理的なシステムにすぎない。そこから悟りとか、あるいは本当の意味での、なんていうかな、聖者の境地に行くことはできない。ただの行法ばっかりやってる場合はね。
 はい。で、そこから悪に転落し、「圧倒され、ヨーギーは気絶する」っていうのは、つまり、行法によってね、そうですね、気絶のような、無のような、サマーディに近い体験はするかもしれないが、そこに、何度も言うけども、深い悟りや、慈悲や、そういったものが伴っていなかったならば、それは、なんていうかな、あまり意味がないというか、逆にその人を、ちょっと悪い世界に引き付けてしまう場合がある。
 これはまあ、皆さんもよく分かると思うけど、われわれが例えば、そうですね、行法をやって、真実の経験ではないにしろ、もし喜びが生じた場合は、それはその人に徳があるっていうことです。でも徳もなかった場合、徳もなくて、心もけがれまくってて、この人が行法をやった場合は、分かると思うけど、魔境に入ります。つまり、行法の力によって霊的な世界に入ったはいいが、けがれてるから、けがれた霊的な世界とつながってしまう。で、そこからいろんな、例えば声が聞こえてきたり、いろんな正しくないものがいっぱい見えてきて、それを真実だと思い込んでしまうと、完全にその世界とつながってしまいます。
 これはね、ムドラーとかの行法だけじゃなくても、そういうパターンっていうのは結構世界中にあるんです。世界中の多くの、なんていうかな、まあ、あまり修行自体しない宗教は別にして、修行する宗教とか、あるいはその他の修行の世界ね。修行っていうのは、例えば呪術的な修行とかも含めてね。ああいうのっていうのは、大概が徳とか慈悲とか悟りをおそろかにして、テクニック的なことばかりを進めるので、魔境に入るんです。しかし例えばその人の中にある程度宗教心があった場合、あるいは、真実ではないんだけども、例えば情とかがあった場合、地獄とかまでは落ちなかったりする。じゃあどこに行くかっていうと、餓鬼になるんです。つまり低級霊になるんだね。で、低級霊としてさまよって、で、またその正しくない宗教とかを信じてる人に憑いたりする。で、低級霊で死にました。そしてまた低級霊になるかもしれないけど、またたまに人間に生まれます。人間に生まれてまた間違った修行をします。実はね、このループにはまってる人って結構いるんです。
 これはね、なんていうかな、つまり、もう一回言うけども、本人はあんまり悪気ないんです。本人は本人なりに真実を求めてるんだね。求めてるんだけど、ちょっと方向性が間違ってるから、そういうループにはまっちゃうんだね。真実を一応求めてるから、あまり地獄とかには落ちない。でも餓鬼になるんだね。その餓鬼と、間違った教えを修行する人間を行ったり来たりするパターンがある。

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