yoga school kailas

解説「王のための四十のドーハー」第六回(8)

【本文】

風が躍動する、空という家
わざとらしい行ないが、さまざまな喜びを生み出す
空から悪に転落する
圧倒され、ヨーギーは気絶する

 はい。これはですね、一般的な意味と特別な意味があります。まず一般的な意味で言うと、「風が躍動する、空という家」――これは何を言ってるのかっていうと、われわれは空という家に住んでいる、つまり心の本性の空の世界に住んでるわけですが、そこでは、風が躍動している。この風っていうのは生命エネルギー。つまりこの生命エネルギーの力によって、われわれはこの世で生きてるわけですね。で、「わざとらしい行ないが、さまざまな喜びを生み出す」ってありますが、これは、逆に言うと、わざとらしくない行ないってなんなんだと。つまりそれが、この世において、修行者が目指すところなんです。どういうことかっていうと、心の本性から生じる純粋な行動、あるいはバクティヨーガ的に言うならば、純粋な神の道具となるっていう道ね。あるいはちょっと密教的に言うならば、心の赴くままに、あるいは融通無碍に、自在なる心の本性のままに、出る思いとか、言葉とか、あるいは行動ね。これは、もしここにわれわれが安定することができたならば、われわれの生きる現象っていうものは、ただただ人々のためになる。例えば仏陀や神の道具として、純粋に、その人が何気なく語った言葉が人を導き、何気なく起こした行動が衆生のためになると。あるいは思いもすべて、純粋な悟りの世界からの思いになる。これが、最高のっていうかな、目指すべきところなんだね。
 そうじゃなくてわれわれは――だから逆に言うとわれわれは今、すべての人が、わざとらしい行ない、つまり不自然なことをやってるんです。つまり心の本性から離れちゃってる。でもね、あまりにも今離れ過ぎちゃってるから、戻れなくなってるんですね。だから不自然なち動きになっちゃって。まあ例えばさ、緊張してね、よく右足と右手が一緒になっちゃったりとか(笑)。例えば「おまえ、なんか右手と右足一緒に出てるぞ」と。でもあまりにもそれにはまっちゃうと、戻れなくなる。「え! どうやるんだっけ、どうやるんだっけ?」(笑)。もしその人の心が完全にリラックスして解放されてたら、何も考えないでもできるでしょ。
 だから、なんでもそうだけどね。例えば、何かスポーツでもそうだし、例えば自分が慣れ親しんだ一つの何か技術をやるときに、ほんとに自由な心だったら、スラスラとできる。しかしすごい緊張してる場合、「え! これどうやるんだっけ?」と。例えば何か体に着けるものを逆に着けてしまったり、例えば野球でいったら、バッターがね、すごい場面でね、超緊張してガチガチで、で、誰かちょっと怖い人が見に来てるとかいう場合とか、例えばバットを逆に持つかもしれない(笑)。「あっ、どうやるんだっけ?」と(笑)。で、フォームもね、いつものフォームと全然違うと。で、監督とかに、「おまえ、そうじゃないだろ」と。「もうちょっとこう肩を引け」とか言われても、「え? どうですか? よく分からない……」――非常にガチガチすると。これが今のわれわれなんです。
 つまり、分かるでしょ? 例えば、さっきの話じゃないけども、本とかでね、「はい、心の本性、ありのままに」とか「心の赴くままに」とかいわれても、われわれは分かんない。「ありのままにって何?」と。はっきり言うとね、「はい、ありのままに」って言われて、皆さん、「え、分かりません」と言う方が、正直です。これもだから皆さん、はまっちゃ駄目ですよ。例えば、そういう本を読んでね、「おお、ありのままか」と。「ありのままだ」とかいって、「分かってんのか、ありのままが」と(笑)。分かってないんだね。分かってないのに、なんていうか、分かったふりをしてしまう、われわれは。それもわざとらしい。だからそれじゃ駄目なんです。ほんとにほんとにありのままにならなきゃいけない。で、それにはね、はっきり言うと、長いプロセスが必要です。なぜかというと、現実的にそのありのままを阻害してる障害がいっぱいあるから。それを一つ一つ打ち砕かなきゃいけないんだね。それが、なんていうか達成されて初めて、心の本性のありのままな状態が輝き出てくる。
 はい。しかし普通はそうじゃなくて、非常に、なんていうかな、ぎくしゃくした――だからさっきから言ってるいろんな欲望とか嫌悪も全部そうですね。われわれは欲望を持って、「おれはこうしたいんだ!」って思ってるかもしれない。でもそれも実は、本当のあなたの心の叫びじゃないんだよと。例えば「おれは恋人が欲しいんだ!」と。それはあなたの本当の叫びじゃないよと。「おれはこの地位が欲しいんだ!」と。違うよと。「じゃあ、おれの本当の叫びはなんなんですか?」と。おれは悟りたいんだと、あるいは、神のしもべになりたいんだと、それがあなたの本当の叫びなんだよと。でもこんなことを街を歩いてる人に言っても、九十パーセント、多分、納得しません(笑)。あなた何言ってるの?と。わたしそんなこと思ったことないよと。悟りたいなんて思ったことないよと。これが現実です。
 つまりどういうことかっていうと、そんだけギクシャクしてるんです。つまりさっきの野球の例えじゃないけども、ほんとのフォームが全く分からない。例えば監督とかが矯正して、「はい、こうしてこうしてこうだよ」と言っても、「え、違うんじゃない? こうじゃないか」と。つまり、全くもうわけが分からなくなってるんです。自分がほんとに何を求めてるのか、何がほんとに自分にとって幸福だったのか、それは全く分からない。で、そのギクシャクした欲求っていうかな、あるいは嫌悪の中で、もう、なんていうか、どうしようもなくなってる。これが多くの、そうですね、修行してない人のパターン。
 で、修行してる人も、半分そこから足は出てるけども、まだ――だからここはちょっと危険なところでもあるんだけど、さっきの話ともつながりますが、頭だけ例えば修行のエッセンスをなんとなくイメージで理解したと。でも心がまだ全然そこに追いついてない場合、ギクシャクします。ちょっと聖者ぶる。聖者ぶるけどなんかギクシャクしてる(笑)。実際は煩悩でいっぱいだから、ギクシャクする。これも危険なパターンですね。もちろんそこでそれを本物に近づけていくならいいんだけども、そうじゃなくて、その概念的なところで終わってしまった場合、これもまあ、とても危険ですね。はい、これが、まあ一般的な意味です。

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