yoga school kailas

解説「王のための四十のドーハー」第六回(6)

 で、「(彼は)眼を開けて、燃え盛る地獄の火の中を歩む」っていわれてるこの表現は何かっていうと、これはつまり、ある程度論理的に空を理解した人のことです。つまり――全く理解してない人は別ですよ。もうほんとにもう、一つだ一つだとかワンネスとか言ってるだけで、その空の深い意味も理解してない人はもう論外です、それは。もうこの言葉の範疇にも入っていません。ね。そうじゃなくて、ある程度頭では理解しましたと。つまり、そうですね、ものすごく勉強してる仏教学者とか、あるいはお坊さんとかね――まあ、つまり、昔のさ、このサラハの時代っていうのは、そういうお坊さんがたくさんいたんですね。つまり僧院にこもって、空の哲学を一生懸命勉強すると。それ自体は素晴らしいんだけども、そこで止まってしまう。そうすると何が起きるかっていうと、その人は、この世の仕組みとか心の仕組みとかにある程度近づくんです。しかしそれは頭の理解なんだね。つまり心がついていってないんです。よって何が起きるかっていうと、その人は、仕組みをある程度分かってながら、苦しみに苛まれるんです。「こうなって苦しんでるんだよな」「この世はこうなってるから、ほんとはこんなところにいちゃいけないんだよな」――でも出れないんです(笑)。
 で、これは、つまりここの表現で言うと、「このような者に、慈悲以外の何を持つことができようか」って書いていますが、つまり、無智の人よりつらいんです。分かるよね、意味ね。つまり無智な人っていうのはまだ――例えばさ、動物を見てみましょう。動物は無智です。動物はもちろん、ライオンとかに食い殺される。もちろんそこでの苦しみってあると思うよ。「わー! 苦しい!」と。「痛い!」と。でもさ、無智だから、動物って。「なんか痛えなあ」とか(笑)、そういう感じかもしれない。自分に起きてることがあんまりよく分かってないかもしれない(笑)。「なんか痛えぞこれ」と。で、食われながら「明日、食事何かな」とか考えてるかもしれない(笑)。しかし例えばわれわれが人間のこの意識を持ったまま、あるいは頭脳を持ったまま、その動物になったらどうしますか。これは精神的苦痛がすごいよね。これはね、はっきり言うと、動物以上に苦しいです。動物は無智だから。もう本能だから、ただの。「あ! なんだなんだなんだ! 逃げないと! あっ、捕まった! やべえ!……ああ、終わりか」と(笑)。でも人間はいろんなことを考える。「うわー! 来た! あれに捕まったらどんな苦しみが待ってるんだろう」って恐怖でいっぱいになる。で、もう捕まったら絶望だよね。もういろんなことが頭を駆け巡る。で、食われてるときも、単純な触覚的な痛みももちろんあるだろうけど、それだけじゃないよね。もういろんなことが駆け巡って苦しみを増大させる。だって、なぜかっていうと、分かってるからです。つまり、あれが来たらどうなるのか。で、食われるっていうことの苦しみはなんなのか。それが分かってるから苦しい。でもそれはどうしようもできないっていうパターンね。これと同じ。頭である程度教えを理解してしまった場合、仕組みは分かってる。しかし、心が悟ってないから、分かってながら苦しみをたくさん味わわなきゃいけないっていう、逆に悲惨な状態になってしまう。
 よって、もちろん頭である程度理解することは必要なんだけど、早くそれを心の悟りに結び付けなきゃいけない。頑張ってるけどできないっていうのはもちろんしょうがないんだけど、ここでちょっと批判の対象となってるのは、つまり文字で、言葉で、空とか心の本性とかを勉強し、それでもう終わったと、わたしは悟ったと思い込んでる者への忠告です。
 過去の偉大な聖者たちも、ここでも何回かいろんな例を挙げたけども、ほんとに苦労して、やっぱりそういうのを悟ってるわけですね。例えば例を挙げると、皆さんもよく知ってるナーローパなんかそうだね。ナーローパは、インドの――まさにこの例にすごく合ってるけども、ナーランダーというインド一の仏教大学の学長だったんです。つまり言い方を換えると、インド一の仏教学者だったんです。だから多くの人から称賛され、ナーローパほどの悟りを開いた人はいないといわれていた。で、そこにおばあさんの姿をしたダーキニーが現われて、忠告するわけですね。「おまえは言葉はよく理解してるが、その真の意味を理解していない」と。で、ナーローパが偉大だったのは、ここですごく謙虚だったっていうことです。それまでは自分は結構悟ってると思ってたんだけど、そのおばあさんに変身したダーキニーの忠告を聞いて、そうだと、わたしは言葉だけを追いかけていて、真の意味を理解していなかったと。そこでそのダーキニーの忠告に従ってね、つまり、ほんとだったら人もうらやむような、インド一の仏教大学の学長っていう地位を捨てて、自分の真の師匠であるティローパを探しに出かけるわけですね。で、実際にティローパに会って、ティローパからいろんな試練を受けて、真の悟りを得るわけだけども。
 あるいは、これも前に言ったけど、ツォンカパね。ツォンカパってチベットのゲルク派の開祖ですが。このツォンカパも、もう大天才といわれた人で、多くのね、例えば本を書いたりとか、あるいは多くの講義をしたりしていて、高い悟りを得ているといわれていた。しかしあるときツォンカパは、師匠であるウマパにあることを頼んだんですね。それは、実はこのウマパっていうのはすごい力を持ってる人で、何かっていうと、いわゆる智慧の菩薩であるマンジュシュリー菩薩と直接話をすることができたんだね。だからちょうどラーマクリシュナがカーリー女神と話すように、もうありありとマンジュシュリーと会話をすることができた。で、そのツォンカパがね、師匠のウマパに、自分の空の理解はどの程度のものか、どの程度のレベルのものか聞いてくれって言ったんですね。で、ウマパは瞑想してマンジュシュリーに会って聞いたわけです。
 そしたらその答えが、「それ、悟りじゃないよ」って言われた(笑)。「おまえ、間違ってるよ」って言われた。うん。つまり、「ツォンカパ、おまえの空の理解はみんなからいろいろもてはやされてるけども、完全に間違いだ」と。しかしですよ、「しかし、おまえが今から五体投地やマンダラ供養などの――いわゆるこれは基礎的な修行に属します――このような基礎的な修行、あるいは帰依の修行などの基礎的な修行を、一から心を入れ替えてやり直し、ひたすら頑張ったならば、そのうちおまえは空を悟る」って言われたんだね。
 で、これもツォンカパの偉大なところで、ツォンカパは今言ったように、その時点でね、もう多くの人から尊敬される学者だったんだけど、その師匠から聞いたマンジュシュリーの忠告を受け取ってね、謙虚に、「そうだったのか」と、「わたしは間違っていた」と言って、謙虚にまた一から、そういった、礼拝とかマンダラ供養とか帰依の修行とかを続けたんですね。で、最終的にはほんとに空を悟ったといわれている。
 だから簡単なものじゃないんだね。だから、なんていうかな、方向性っていうかな、謙虚な心と、それをいつかほんとにつかむんだっていうその気持ちがあれば大丈夫です。
 で、もう一回言うけども、ここで言ってるのは、傲慢さによって、あるいは無智によって、ただそれは言葉だけにすぎない空の理解を、「わたしは悟った」と思い込んでしまった人に対する忠告だね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする