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解説「王のための四十のドーハー」第六回(5)

【本文】

心の本性を、一つ、または多数であると錯覚して分析するならば
心の本性の光は捨てられ、この世に溺れてしまう
彼は眼を開けて、燃え盛る地獄の火の中を歩む
このような者に、慈悲以外の何を持つことができようか

 はい。ここから先はですね、ここまでは結構基本的なことについて話してきたんですが、ここから先は、そうですね、われわれが修行しているときに落ち込むかもしれない罠ね。もしくはちょっと間違った道に対する警告が、何パターンか続きます。
 はい、そして一番最初のこの詩はですね、ここから先は非常に難しいんですが、簡単に言いますよ。簡単に言うと、例えば本を読み、特に空の教えとか悟りの教えとかを本で読み、そして論理的にそれをある程度理解し、で、それがすべてであると思ってしまい、そこで止まってる人に対する忠告です。つまり、いつも言うけども、空であるとか心の本性っていうのは、本来言葉では表わせません。なんていうかな、だから言葉で表わした時点ですべて間違いになってしまう。しかしそれでは何も教えっていうものがなくなってしまうので、あくまでも最も近い表現、もしくは結果的にその人をその空に導く表現として、空の教えとかがあるんだね。ただし、その最初の段階では、この空の教えを論理的に学ぶことは、まあ別に悪いことじゃない。っていうか、必要なことでもある。なぜかっていうと、最初から間違ってたら、つまり完全に間違った理解をしてたら、先に進めないから。ね。
 例えば「空とはなんですか?」「いや、それは何もないっていうことですよ。」「この世は何もないんだ」と。「だから何やってもいいんだ」と、こうなったら、それ、ちょっと待ってくださいと。だから少なくとも論理的に、いったい空とはなんなんだっていう、ある程度の理解はしなきゃいけない。しかしいつも言うように、理解しつつ、しかしこれは仮の言葉だと。ほんとのほんとの意味は直接的に悟るしかないぞ、ということは、もう一方の頭では理解しとかなきゃいけないんですね。しかしそうじゃなくて頭の固い人、あるいはプライドの高い人というのは、ちょっと本を読み、あるいはちょっとじゃないかもしれないけどね、たくさん本を読んで、ある程度頭が良くて、ある程度そこに書かれてることを哲学的に理解しましたと。ここで満足する人がいる。「ああ、わたしは空を悟った」と。しかしそれは違うんだよと。
 それは逆に、なんていうかな――ここの言葉で言うとね、「心の本性を、一つ、または多数であると錯覚して分析するならば」ってありますが、例えばいろんな経典をを見ると、「すべては一つですよ」っていうことがよく書かれてる。まあよく精神世界でもワンネスとかいう言葉がはやったりするけども、もういろんな人がワンネス、ワンネスとか、すべては一つとか言ってる。ね。もちろんその人が、「いや、これは言葉であって、ほんとにその意味を悟るのは修行しなきゃいけないんだ」って思ってたらオッケー。しかし多くの人は、その言葉に酔ってるわけだね。「ワンネス、ワンネス」と。「一つです、一つです」と。よくヒッピーみたいな人たちもそういうこと言うけどね(笑)。「ハッピー、ハッピー、ワンネス、ワンネス」と(笑)。別に何もやってない、その人(笑)。それじゃ駄目なんです。じゃなくてもう一歩先に進み、そこでそれが意味してるほんとのものをつかまなきゃいけない。
 いつも言うけども、「一つ」っていうのも過ちだからね。一つっていうのはだって、二つとかゼロを前提とした言葉だから。つまりもう完全に二元の中にいるんです。「一」って言った段階でもう二元の中にいます。「無」って言っても駄目ですよ。「無」って、「有」を前提としてるから。だから言葉はもうどこまでいっても二元なんですね。よって直接的な悟りを得なきゃいけない。で、その道を進んでる人はいいんだけども、そうじゃなくて、言葉に酔ってね、「ああ、すべては一つである」とか、逆に流派によっては、いろんな多様なシステムを言う流派もある。でもそれにとらわれてるうちはそれは逆にね、心の本性の悟りの光から遠ざかりますよと。逆にこの世に結び付けられますよと。

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