解説「王のための四十のドーハー」第六回(3)
はい、そしてその識から生じる、これは簡単に言いますが、自我意識、これが名色です。つまり、「わたし」っていう感覚です。つまりこれは前にわたし夢のプロセスで説明したことがあるんですが、だからこの十二縁起にわれわれが巻き込まれる、本来自由だった魂が十二縁起に巻き込まれるプロセスっていうのは、われわれが夢を見るプロセスとすごく似てるんだね。
皆さん、夢を思い出してください。思い出してくださいっていうか(笑)、夢の仕組みをね、ちょっと考えてみましょう。皆さん、この中で鮮明な夢を見る人、あるいはそんなに鮮明じゃない人、いろいろいるだろうけど、まあ、わたしはとても鮮明な夢を見る方なんですが、だいたい夢に入るプロセスっていうのは、だいたいね、まず心の中に――まあ夢っていろんな夢があります。聖なる夢とか、あるいは悟りに関係する夢っていうのはちょっと別だけども、そうじゃなくて単なる記憶から生じる夢ってあるね。この記憶から生じる夢っていうのは、まず、心の中になーんとなくイメージが湧いてきます。このイメージっていうのは、普段からいつも湧いてるものです。なんか、なんとなく湧くイメージがあるよね。このイメージが湧いてきます。これはまだ、行とかに近いんだね。行ね。単なるただのデータだから。で、そのただの情報が、ちょっと欲求の嗜好性を持ちだすんですね。つまり「こうなりたい」とか「ああでありたい」とか。これが行、そして識の色合いを帯びてきた段階です。で、そうなってくると、そこにおいて、欲求を叶えるための、あるいは嫌悪の場合もあるけども、誰かを嫌悪する、あるいは何かを欲求するっていう主体が必要になってくるんだね。
夢っていうのはだから、最初はね、最初は全体がなんか自分なんです。なんかいろんなイメージが浮いてるけど、どこがおれとかなくて全体なんだけど、途中から「おれ」が登場しだすんです。ね。途中から「わたし」っていうなんか主体が出てくるんです。で、ここで「わたし」と「あなた」に分かれます。っていうか「わたし」と「世界」に分かれます。
もう一回言いますよ。その前までは世界全部が「わたし」だったのに、ね。世界全部わたしだったのが、「わたし」が登場した瞬間、ほかはわたし以外のものなんです。でもよく考えてみてください。でもそれも自分の夢なんだから。ね(笑)。自分でしょ。だからこれがすごく似てるんだね。だから今皆さんが見てるこの現実だと思ってる世界も、皆さんの魂が見てる夢です。つまり、すべて皆さんの心の世界なんだね。つまりこれが、最初の行とか識とか呼ばれる段階。だから行とか識とか呼ばれる段階ではただ全体があって、それはなんていうか、まだ経験に引きずられてるんだけど、つまり夢みたいな感じ。夢も経験に引きずられてるわけだよね。起きてたときの経験が夢の中に出てきましたと。同じように過去の経験によってわれわれは、心の最も奥の、なんていうか世界っていうのがまずできあがる。で、その中で、その欲求や嫌悪を満たすために、主体ができあがる。主体ができるっていうことは、客体もできる。これが、無明・行・識・名色、そして六処【ろくしょ】、あるいは六処【りくしょ】ともいいますが――のプロセスなんですね。
この六処といわれるのは、まあ簡単に言いますが、眼・耳・鼻・舌・身・意といわれる、つまり五感プラス心の主体と、その対象のことです。つまり完全に自と他の区別が分かれる。ここでね。で、その自と他の区別を認識する道具が、五感と心なんです。ね。つまり五感によって対象を認識するでしょ。あるいは五感を使わなかったとしても心の中で対象を思ったりする。これが、六つの自と他の区別の要因なんだね。
無明、行、識、名色、六処まで来ましたね。はい、そしてそれが、次に触。触っていうのは接触っていうことです。つまりやっとここから物語が始まるんです。そのセッティング、わたしとあなたのセッティングができましたと。はい、ここからその「わたし」が世界と接触を始めるわけだね。つまり、また新たな経験が始まるわけです。で、新たな経験が始まると、そこで、ものすごい、それに対する、楽の思いか、もしくは苦の思いが生じます。なぜかというと、もともと情報というかレッテルが貼られてるからです。つまりレッテルによって、「これは楽である」「これは苦である」っていう情報がもともと決まってるんだね。決まってて、われわれは――だから全部夢みたいなものなんだけど。だからまさに夢です。夢の中で、例えばいじめっ子にいじめられた経験があったとしてね、そのいじめっ子にいじめられた、嫌だった嫌だったっていう思いが心にあまりにもあり過ぎると、まずなんとなく、ぼわーんと「いじめっ子嫌だったなあ」っていう世界があって、で、そこからズバッて自分が登場しちゃって、いじめっ子が登場しちゃうんです。ね。そしてそれが接触しちゃうんです。つまり夢の中で、実際にいじめっ子と会ってしまう。で、もともと自分の中には「いじめっ子嫌だ」っていう情報があるから、その夢の中でいじめっ子と会うと、当然、「嫌だ、苦しい」っていう思いが出てくる。「会いたくない、逃げたい」と。
よーく考えてみてください。自作自演なんです。だって、もともとは「いじめっ子嫌だ」っていう思いがあって、それが作り出した夢だから。ね。別に誰かが持ってきたんじゃない。自分が「いじめっ子嫌だ」っていう思いが増幅されて、生み出したイメージがその夢だから。同じようにこの世の現象も、われわれの心の奥の奥にある経験の情報ね――これはカルマといってもいいわけだけど、このカルマとか心の奥の情報が、われわれの周りの、好きなもの、嫌いなものを生み出し、そしてそれに接触することによって、つまり会ったり、あるいはさっき言った五感でね、それを経験することによって、そのもともとの情報に応じて、そこで楽を感じたり、苦を感じたりするんだね。これが受っていうやつです。受ね。感受の受ですね。
そしてそこから、より渇愛と嫌悪が強まります。当然その楽しいこと、気持ちいいと思うことには、よりそれに対する欲望が強まり、そして嫌だと思うものにはよりそれに対する、苦しみっていうかな、嫌悪感が強まるわけだね。
-
前の記事
解説「王のための四十のドーハー」第六回(2) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第九回(3)