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解説「王のための四十のドーハー」第六回(1)

2009年9月9日

解説「王のための四十のドーハー」第六回

 はい。今日はまたサラハの続きですね。この『サラハの詩』は、たまにしかやらないんで、最初に全体的な説明を毎回して、それでかなり時間を取られてるので(笑)、今日はさらっとだけ、全体的なことをサラッとだけ言いますので。
 まあ、これはドーハーね。これはミラレーパと同じように、心から湧き出た悟りの歌です。で、このサラハという人は、簡単に言いますが、マハームドラーといわれる、つまりチベットに伝わってる密教の究極的な悟りのメソッドね、その修行法の、まあ、なんというかな、大元の人の一人です。これは八世紀ぐらいの人といわれていますが、伝説的な密教行者ですね。
 で、この人が、今回は端折りますけどもいろいろあって、一見ちょっと狂ったような、しかし実際は偉大な大聖者になるんですが、その彼がね、まず王の大臣たちに、百六十のドーハーを歌うんだね。それによって多くの人を悟らせた。で、次に、非常に素質のあった王女様に対して八十の歌を歌い、それによって王女様を悟らせた。つまり王女様は素質があったので、一般人の半分でよかったわけですね。で、最後に、最も素質のあった王様がいたわけですが、この王様に対してサラハが歌ったのがこの四十のドーハーです。つまり王様は、その王女様よりさらに素質が高かったので、四十で十分だった。で、これが有名なね、『王のための四十のドーハー』っていう歌なんだね。
 で、これは前にちょっと学んだ『スフリッレーカ』――まあ、これはもうすぐ本になる予定ですが、ナーガールジュナの『スフリッレーカ』と同じで、その一行二行の短い詩に、非常に深い意味がたくさん盛り込まれてるんだね。ただこれは密教が入ってるので、かなり、読んだだけでは分かりにくい。だからその辺の説明をね、行なっていきたいと思います。

【本文】

無智が明確であるとき、叡智は不明瞭である
無智が明確であるとき、苦しみは明確である
このように、新芽は種子よりあらわれ
新芽より枝葉はあらわれる

 はい。これはですね、そんなに難しい詩ではないです。つまり何を言ってるのかっていうと、これは、いわゆる十二縁起の法のことをいっています。十二縁起ね。
 で、ここに「無智」って書いてありますが、まあ正確にはだから無明ですね。無明。「無明が明確であるとき、叡智は」――だからここでいう叡智も、十二縁起としていうならば明ですね。つまり、「無明が明確なとき、明は不明瞭である」「無明が明確であるとき、苦しみは明確である」。
 つまりまず明と呼ばれる、すべてをありのままに見る状態があって、で、それを覆う状態ね、その明が覆われた状態が無明です。だから当然その無明があるときっていうのは、明の智慧っていうのは不明瞭になります。で、逆にその無明が明らかに出てるときっていうのは、十二縁起のプロセスが進むので、その十二縁起のね、最後にやって来る苦しみっていうものが明確になりますと。これが「新芽は種子よりあらわれ」云々っていうやつですね。つまり種から芽が出て、で、芽から枝葉が出て、まあ、もっと言うならばそこから花が出、実がなりっていうやつね。つまりそのタイプの植物の場合、当然種がなければ芽は出ない。また別の言い方をすると、芽がなければ枝はない。つまり芽というプロセスを踏まないと枝は存在しない。つまり種からいきなり枝にもならない。だから、これがあってこれがあり、これがあってこれがあり、っていうその因果の法則があるわけですが、われわれがね、この世において苦しみをどのようにして味わうのかのプロセスをいってるのが十二縁起なんですね。
 十二縁起に関しては、これは、もちろん仏教における最も重要な教えの一つです。ただしまあ、非常に分かりにくいところは分かりにくい。ただこれに関してはね、わたしもエッセイ集とかのいろんなところに、いろんな角度から十二縁起のことを書いてますので、それはエッセイ集をひたすら勉強してみたらいいね。

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