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解説「王のための四十のドーハー」第五回(9)

◎ミラレーパの例

 何回も言うけど、ミラレーパもね、その落とし穴にはまったんだね。ミラレーパが――ミラレーパっていうのはもともと、縁のあるマルパのもとに行く前に別の師について、で、その師がそういった話をしちゃったんだね。つまりもとから悟ってるみたいな話をしたら、ミラレーパはそれを真に受けちゃって、もう寝て過ごしたと。で、一週間二週間と寝て過ごして、ついにその師匠が、堪忍袋の緒が切れてやって来て、「何やってんだ!」と。「わたしにはおまえを導くことはできない」と。「おまえはマルパと縁があるから、マルパのもとに行け」って言ってマルパのもとに送り込まれる。で、マルパはミラレーパと縁があったから、この人物がどれだけ――つまりミラレーパっていうのはマルパのあとを継ぐ、まあ非常に優秀な弟子だったわけだけど、その素質と、それから今生積んできた悪業と、そして、何をどうすればこの弟子が速やかに悟るのかっていうのをマルパは見抜いて、で、その作業をさせたわけですね。
 で、有名な話だけども、マルパがミラレーパにやらせたことっていうのは、肉体労働です。つまりミラレーパはね、非常に観念があって、つまり修行とはこういうもんで、こういう教えを学んでこういう瞑想をして、こういう呼吸法をして、っていう観念があった。で、それを期待して行ったんだけど、マルパがミラレーパにやらせたことは――マルパって息子がいたわけだけど――「わたしの息子のための塔を造ってくれ」と。つまり「巨大な建物を建ててくれ」と。で、「一人で造れ」と。で、当時、ね、昔のチベットだから、当然、ユンボとかないよ。ブルドーザーとかもないよ。クレーン車もない。しかも石の建物です。石で造った建物。これを一人で作業しなきゃいけなかった。いろんなところから石を運んでガンッて置いて、あるいは削ったりして、モルタルを塗ったりして、その作業で何階建てもの塔を造るんです。これをひたすらやらされる。で、もうその作業のやり過ぎで、体中傷だらけになったっていう。それくらいまでひたすら肉体労働させられるんだね。
 で、それだけではない。精神的な超いじめを受けるんです。どういうことかっていうと、例えばこういう集会を開いてね、「これから偉大な聖なる教えをみんなに授けよう。」――で、その場にミラレーパもいるわけです。そうすると、「なんでおまえはいるんだ」と。「おまえにはその資格がない」と。つまりもうみんなの前でばかにして、で、実際に足で蹴ったりして、もう完全に精神的にズタズタにするんだね。自分はもう、自分一人だけは、マルパの弟子の中で教えを受ける資格がないんじゃないかと。わたしはほんとに修行してもしょうがないような、ほんとに駄目な魂なんじゃないかって、もうボロボロにされるんです。もう徹底的に精神的にボロボロにされ、で、徹底的に肉体的にもボロボロにされる。で、そこで、与えられる教えは一つだけです。「帰依しなさい」と。つまり、「師であるわたしに帰依しなさい」と。ただそれだけなんだね。
 つまり、普通だったらね、あり得ない話でしょ。もう肉体的にボロボロにされて、精神的にいじめ抜かれて、「わたしを信じなさい」って言ってるわけだね(笑)。普通だったらなかなか難しいんだけど、もともとそういう素養があったミラレーパは、一生懸命マルパをそれでも信じていく。で、ちょっとアメとムチみたいな感じで、マルパの奥さんは優しくしてくれる。マルパの奥さんはすごく人間的な感じで、ミラレーパがもうボロボロにいじめられてるのが見てられなくてね、「さあ、おいしいものを作ったわ」とかね、「今日は休みなさい」とか、すごく優しくしてあげるんだね。まあ、それだけが心の支えで、あとはもういじめられ抜くんだね。
 で、最後の最後でミラレーパは逃げちゃうんです。で、これもね、マルパの奥さんが余計なことをするからなんだけど(笑)。マルパの奥さんが余計な悪知恵っていうか入れ知恵をしてね、こういうふうにして、ちょっとほかの――マルパの高弟がいるんだけど、「マルパから許可を得たって言って、あの高弟に教えを受けに行きなさい」と。「そうすればあなたは望みの修行を得られるよ」って言って、入れ知恵をして、ミラレーパはマルパのもとを出て行っちゃうんですね。でもまあ最終的には帰ってくるんだけど。で、ミラレーパが帰ってきたときに、マルパはようやくミラレーパを受け入れるんです。今までの態度が一変して、今までの鬼のような態度から一変してね、もう優しく、「さあ、今日から本格的な修行に入ろう」と。で、そこですべての種明かしをするんだけど。つまり、「わたしが今までやってきたことは、全部おまえを悟らせるためのテクニックだった」と。で、「もしおまえが」――これははっきり言ってマルパの奥さんも悪いんだけど――「おまえが最後までに逃げずに塔造りを達成してたら、その瞬間悟ってた」って言うんだね。つまりなんの修行もいらずに悟ってたと。でも最後で逃げちゃったんで、これからしばらくおまえは修行しなきゃいけないと。つまりギリギリの最後の最後で逃げちゃったから、そのあとは、もうひたすら、おまえは瞑想修行で最後のけがれを取り除かなきゃいけないと。でも逆に言うと、もう一回言うけども、もし逃げなかったら、ミラレーパは、一切瞑想せず、呼吸法とかもせず、ただマルパにいじめられただけ、というよりもマルパの命令をただ実行しただけで、悟ってたんです。
 つまり何を言いたいかっていうと、これはいつも言ってるけども、われわれが概念的にとらえてる修行の意味ってあるよね。例えば、「この修行はなんで必要なんですか?」――これはエネルギーを上げてこうでこうで、とかあるけども、全部それは実は、つじつま合わせなんです。もっとわれわれの理解し難い深い意味があるんだね。だから変な言い方をすれば、それを知ってる人から見たら、いろんな方法で悟らせることができるんです。このマルパみたいにね。ただグルへの奉仕だけで弟子を悟らせることもできる。でもわれわれは納得したいから、だいたい納得して進むんだけどね。でも密教になるにしたがって、より直接的な方法を取るから、だんだんね、納得しては行けなくなってくるんです。
 こういうこと言って理解できるか分かんないけど、そうですね、大乗仏教とかまでは、われわれは逆に、理解と納得が必要です。どういうことかっていうと、一つ一つ教えを理解し、これはどういう意味があるのかっていうのをちゃんと理解した上で、その教えを実践すると。「ああ、なるほど、こうなんですね」っていうことで納得して実践すると。しかし、密教の真髄的な教えに入ったら、その、理解したい、納得したいっていうエゴを捨てなきゃいけない。はっきり言うと、「理解したい」っていうのはエゴなんです。なんでかっていうとね、それで守られるから。「あ、こうですね。分かりました。理解しました。安心です。」――つまり安心が生まれるんです。でも、理解できないっていう状況、これは不安でしょ。何があるんだと。いったいどういう意味なんだと。でもこの理解できない状況こそが、われわれに悟りをもたらすんです。なんでかっていうと、われわれが理解したと思ってる、納得したと思ってる状況っていうのは、それは実際には理解してるわけじゃなくて、ある一つの概念にしがみついてるだけなんです。それを手放さないと、ほんとの悟りっていうのはやって来ない。
 それはね、これもいつも言ってるけども、皆さんが例えば、空であるとか、あるいは悟りであるとか、あるいはブラフマンであるとか、そういうのを教えで学んでね、なんかイメージするものがあるよね。ああ、こういう感じかなと。それは百二十パーセント間違いです。百二十パーセントだよ(笑)。九十パーセントでもなく、百二十パーセント、間違いです。だから、おそらく皆さんは、一生懸命修行して、しかもできるだけエゴを抑えながら修行してると、あるとき、唯一の真実に手が届くときがあります。で、最初はね、これはちょっと触れるような感じです、イメージで言うと。で、いつも言ってるけどもね、この唯一の真実に手を触れたときに、最初、ものすごく驚きます、皆さんは。なんで驚くかっていうと、全く予想外だからです。それは自分がイメージしていた悟りとか空の世界とは、全然違うものが来ます。「ええ!?」っていう感じです。もう――あのさ、よく昔、わたしの友達がね、「馬と柿ほど違う」っていう表現をしてて。それ、ことわざとしてあるのかなと思ったら、調べてもないんだよね(笑)。ないんだけど、でもなんか表現としては確かにいい表現なんだね、「馬と柿ほど違う」。つまり、馬とシマウマならまだ分かる(笑)。あと馬と犬とかならまだ分かる。馬と柿ですよ(笑)。例えば、「サラブレッド見に行こうぜ」とか言われてね、「おお、サラブレッドか」とか言って一緒に行ったら、置かれてるのが柿だったと(笑)。もう、びっくりでしょ(笑)。

(一同笑)

 例えばサラブレッド見に行って、ちょっとみすぼらしい馬がいたらね、「これがサラブレッドかよ?」――これはまだ段差がちょっとあるぐらい。でもサラブレッドって言われて行って、柿置かれてたらどうします(笑)? あり得ないでしょ。「あれ、どこ?」って感じでしょ。「え、サラブレッドどこ?」と。「え、これ!?」と(笑)。ちょっとパニックになるでしょ。そういう感覚がある。
 だからわれわれが例えば最初そのような智慧の世界を経験したとき、多分まず分かりません。「え、どこどこ?」って感じになる。「え、これ?」と。ちょっと恐怖があるね、一つの。「なんだこれは?」と。
 だから逆に言うと、われわれがそういう観念を持ってると失敗するんです。「悟りとはこうですよ」「智慧の世界っていうのはこうですよ」って勝手に自分でつくり上げてると、逆にそこに到達できません。だから観念を超えた、ある種の真実の世界があって。で、そこへのアクセスの方法っていうのは、つまり観念を超えた世界へのアクセスだから、なんていうか、普通は理解できないんだね。理解できないけども、なんていうかな、一番最初、全くその修行の道に入ったばかりの人には、やっぱり最初は理解が必要なんです。なんでかっていうと、われわれは、悪い理解、悪い概念の理解によってこの世に結び付けられてるから。例えば欲望を追い求めることは、このようにわたしにとって利益があるとかね。あるいは人を怒ることはこのようにストレスが解消されるとかね。いろんな悪い意味での理解がある。で、その悪い意味での理解を壊すために、悪い意味での理解をひっくり返すために、正しい理解っていうのが必要なんだね。
 でも、ちょっと誤解を恐れずに言うと、正しいっていうことと、真実は違うんです。正しいっていうのは、あくまでも、正しいか正しくないかの二元の世界なんだね。でもそう言うと、真実も非真実との二元じゃないかって言われちゃうんだけど(笑)。まあ、それはもう言葉の問題なんだね。どこまでいってもちょっと言葉では語れないんだけど。とにかくその正しいっていうのも、真実ではないんです。でもわれわれは最初、正しいっていうところから入んなきゃいけない。正しい教え、正しい修行、ここから入っていって、積み上がるんだけど、途中段階から、さあ、じゃあそろそろ本番に入りましょうかっていう段階に入ってくる。本番に入ったらもう観念を捨てなきゃいけないんです。つまりそれまでは、何度も言うけども、こうだからやりましょう。例えば、「師匠、この修行どういう意味ですか?」「こうですよ」「あ、分かりました、納得しました。じゃあやります」と。「え、それはちょっと納得できませんからやりません」と。途中まではこれでオッケー。で、途中からはまさにこのマルパとミラレーパの話みたいに、「おまかせします」になるんです。つまり、「わたしはよく分かりました」と。
 つまりね、正しく修行を進めて、ある段階に来ると、完全ではないけども、なんとなく分かってくるんです、この全体像が。つまり、「あれ? これは全部一種のゲームだな」と。「わたしは一生懸命修行をしてたような気がしてたが、これも含めてすべて修行ゲームにすぎない」と。「一つ一つの修行の意味とか、そういったものを含めて、わたしを納得させるための表面的な幻みたいなもんであって、本質はまた別のところにあるな」と。これにだんだん気付くはず。で、その本質をつかむには、もうわたし一人の力ではどうにもならない。神や、あるいは自分の師に明け渡すしかないなと、投げ出すしかないなっていうことに、だんだん気付いていきます。で、気付いた人は、密教の道に入るんだね。
 で、この密教の道に入ると、いつも言うように、師と弟子の一対一の関係みたいな世界になってくる。だからここで教えは関係なくなるんです。ちょっと極端な言い方をすればね。表面的な教えは脱落して、さあ、いかにこの弟子が、最も直接的に、スピーディーに悟るかだけの勝負になってくるんだね。これがまあ、密教の世界の話っていうかな。

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