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解説「王のための四十のドーハー」第五回(8)

◎至高の教えの落とし穴

 はい、そしてそれは、ここに書いてあることは、さっきのIさんを例えにした例えでも言ったように、もともと初めから、今も、未来も、つまりここにいる人は全員、この瞬間も、悟りの光そのものなんです。誰もけがれた人はいないんです。これがこのダイヤモンド、宝石の例え。
 どういうことかっていうと、宝石がありますよ――まあ特にダイヤモンド。よくね、仏教ではヴァジュラ、このヴァジュラっていうのはいろんな意味があるんだけど、一つの意味としてはダイヤモンドのことです。ダイヤモンドがありますよと。ダイヤモンドが例えば泥の中に落とされました。しかもそれだけじゃなくて、まあ、いろんんな人に踏まれました。さあ、どうなるか。まず泥だらけだからダイヤモンドの輝きはないね。しかしですよ、ダイヤモンドが何か変わってるかっていうと変わってない。なぜかっていうと、まずダイヤモンドは、表面に泥が付いても、染まることはないよね。例えば泥が付いて、その泥がダイヤモンドの奥に入っていって、洗ってもダイヤモンドが茶色くなっちゃいましたっていうことはあり得ないよね。それから、ダイヤモンドだから、誰が踏んでも、あるいは石とかでちょっと擦られても、傷付くことはない。つまり地上で最も硬いものだから。ダイヤモンドを加工するにはダイヤモンドで切るしかないわけだから、泥や砂利の中に置かれても、一切傷も付かない。つまりなんの欠陥もない状態が、その泥の中にある今も、それは継続されてるんだね。ただ泥で見えなくなってるだけなんだと。それがわれわれれの状態だと。
 別の例えで言うとね、これは泥水とかもそうです。例えば泥水ってありますよと。例えば純粋な透明な水があったとして、その透明な水に泥が混ぜられたと。ああ、濁りましたねと。でもよく考えてみてください。でも水は水でしょ。つまりH2Oという、水というその物理的状態はなんの変化もないんです。つまり逆に言うと、その泥水の中に透明な水は隠れてるんです。ろ過すればまた現われる。水っていう原子が、泥によって、なんていうかな、元素変換はされないよね。水はずっと水でしょ。それと同じ。つまりわれわれは今泥水のような感じなんだけども(笑)、でも水なんです。水イコール悟りだと考えたらいい。われわれは今泥水だけども、でも泥水っていうことは水なんです(笑)。ね。ろ過すりゃいいんです(笑)。
 あるいは、もうちょっと言うと、泥そのものが幻影にすぎないっていうことに気付けば、われわれは、「あ! なんだおれ、水じゃん」って自覚するんだね。これがマハームドラーとかゾクチェンとかでいわれる、瞬間的な悟りなんです。つまりわれわれは、もし自覚すれば、今もこの瞬間、悟ってるっていうことに気付くんだね。ただ現実的にはこれは非常に難しい。理論上は簡単なんだけど、現実的には難しい。禅とかもそうだよ。禅とかでもよく瞬間的に悟るっていうけども、あれは、なんていうかな、そうですね、ほんとにその人の過去世からのカルマと、つまり修行とかで積んできたカルマと、それから神の祝福と、それから偉大な師匠のアプローチ、あるいはタイミング、こういうのがピタッて一致したときにそれが起こるんです。そうすると、それはもう、いろんな積み上げとか関係なく、瞬間的に悟ります。これは実際あり得る話なんだね。これはお釈迦様の時代からそういうことはよくあるんです。でもそれはわれわれがイメージしてできるもんでもないんだね。だからこれはもうひたすら、この理論は頭に入れつつ、つまりわたしは本来、今もこの瞬間も実は悟ってるんだと。ただそれがまるで、ほんとは全くけがされてないんだけど、泥水でけがされたように思い込んでるだけなんだと。この理論は頭に入れつつ、しかしそこから、そうはいってもそのけがれからわたしは今まだ解放されてないから、それから解放されるための修行を徹底的に積もうと、こう考えなきゃいけない。
 だからこういったマハームドラーとかゾクチェンの教えを学び過ぎて、逆に失敗するパターンもよくあるわけだね。これは実際にわたしもそういう人もよく見てきたけども、本でばっかりそういうの学んでね、「いやあ、先生、マハームドラーとかゾクチェンでいうと、われわれはもう悟ってるんですよ」と。で、なんか修行しないと(笑)。なんかだらだら生きてて、「わたしはもう悟ってる」と。それはもう駄目です。それはもう一つの落とし穴です。

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