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解説「王のための四十のドーハー」第五回(7)

◎最高の宝石

【本文】

存在そのものの本質には何の欠陥もない
それは、輪廻とニルヴァーナのどちらにも染まることはない
それでも、最高の宝石が泥沼の中に置かれるならば
その輝きは、知られることはない

 はい。これもね、今言ったのと同じ流れっていうかな、同じような話だけども、「存在そのものの本質」――つまりわれわれの心の本質や、あるいはこの世界の本質、それには「何の欠陥もない」と。
 ここでね、これも何度も言ってることだけども――そうだな、皆さんはあまり、特に仏教的な本とかを、そうですね、たくさん読まない方がいいです。なぜかというと、逆にそこで、その観念に巻き込まれます。特にね、空っていう教えがあるよね。一切は空ですよと。で、この空っていったいなんなんだと。これに関してはさまざまな解釈があります。で、現代のっていうか、インドやチベットの正統的な大乗仏教とかの解釈、あるいは現代でいうとダライ・ラマ法王とかが属するチベットのゲルク派とかの解釈では、簡単に言うと、その空っていうのは消極的な表現にすぎないんだね。消極的な表現にすぎないっていうのは、つまり空っていう何かがあるわけじゃないんです。そう思ったら間違いです。つまり、例えば、一切は条件によって成り立ってるとか、依存し合って成り立ってるとか、一切は実体がないんですよと。そのことを、その現象を空といってるだけであって、空っていう何かがあるわけじゃないんですよ、っていう言い方をするんだね。しかしこのマハームドラーの教え、あるいはゾクチェン系の教え、あるいは、もちろんヒンドゥー教系の教えでは、「確実にある」というんだね。つまり、一切の、今言ったその概念やけがれを取り除いたときに、そこにある心の本質がありますよと。もちろんこれはいつも言うように、それは「ある」と言うのも間違いだし、「ない」と言うのも間違いなんです。だからどう表現するかなんだけど、多くの現代の仏教の学者は、「ない」と言いきるわけです。それは、そこにはまってはいけない。「ある」っていうのも間違いなんだけど、でも、ヒンドゥー教やマハームドラーの人たちは、まあ、どっちかっていうと「ある」と表現するんだね。で、わたしも、どっちかっていうと「ある」と表現した方が、なんていうかな、利益は大きいと思います。
 つまり、なくはないんだね。なぜ「ある」とも表現できないかっていうと、われわれが感じている、われわれが理解してる意味での「ある」ではないんです。だからちょっと「ある」とは言いきれないんだね。でもまあ、「ある」と言った方がいいと思います。心の本性の素晴らしい状態があるんだね。だからそこに到達しなきゃいけない。
 だから空というのも、決して「ただ何もない」だけではなくて、あるいは「すべてはただ依存し合ってるんですよ」っていうだけが空ではなくて、本性的なものがあるんですよと。
 それはここでの表現としては、宝石として表現されている。つまり宝石のように光り輝く、なんの欠陥もない、純粋な、われわれの本質があると。
 皆さんは思ったことありませんか? わたしはね、修行して――いつも言うように中学生ぐらいからヨーガ修行とかやってて、で、いろんなヨーガ哲学や仏教哲学を学ぶうちにね、特に大乗仏教の哲学で、いや、心の本質っていうのはないんだよと、一切はただ依存し合って空なだけなんだよっていう教えがいっぱい出てきたのを見て、じゃあ、なんで修行すんのかな?と思った(笑)。最後何もないなら意味ねえじゃんと思って(笑)。なんのために頑張ってるんだろう?と(笑)、思ったことがあるんだね。皆さん、そう思ったことないかな(笑)? 変な話だけどね。ちょっとこれはレベルの低い話になるけども、やっぱり頑張るにはモチベーションが必要だよね(笑)。

(一同笑)

 ヒンドゥー教はその辺、非常にモチベーション上げてくれる。

(一同笑)

 ヒンドゥー教の教えっていうのはもうほんとに、あなたが心のけがれを取り去ったならば――例えばね、サット・チット・アーナンダと。サット・チット・アーナンダっていうのは、純粋な真理、純粋な意識、そして純粋な歓喜、ここに到達しますと。それはまさに神の喜びであり云々と、もうほんとに壮大なことをいうわけだね。「いいなあ」と(笑)。

(一同笑)

 「この境地におれも行かなければ!」って感じになる。でも大乗仏典とかでは、「一切は空である」と。「存在しないのである」と。じゃあ、なんのために修行するのかな?ってなってしまう。
 で、もう一回言うけども、どっちも間違いなんです。「ない」と言うのも間違いだし「ある」と言うのも間違いなんです。で、それを超えた――まあ、だから便宜上、便宜的に言うと、それを超えた、あるとないを超えた境地があるんです。ね。そこに到達しなきゃいけない。で、それは、宝石のように光り輝き、欠陥がないと。で、それは、輪廻とニルヴァーナも超えてるんだね。
 ここがポイントで、普通は、輪廻を超えて悟ったらニルヴァーナ――これが普通の考えなんだけど、でも大乗仏教や密教ではその両者も超えるんです。ニルヴァーナっていうのはね、前も言ったけども、ニルヴァーナっていう言葉の定義は、「消える」っていう意味なんです。これ、どういうことかっていうと、輪廻っていうのはちょうど、前も言ったけども、ろうそくの炎が燃えてるようなもんなんだね。ろうそくの炎が燃えてますよと。酸素を消費しながら燃えている。で、生まれ変わりというのは、ろうそくが小さくなりました、よって次のろうそくに移し替えました。これが生まれ変わりです。で、ニルヴァーナというのは、完全にこの火を消すことなんだね。火が消えた状態、はい、これがニルヴァーナですよと。しかしここで問題なのは、ニルヴァーナというのは、輪廻の逆、つまり輪廻の相対的な世界にすぎない。つまりそれもまだ、二元性を超越してないんだね。意味分かるよね? つまり、無っていった場合、単独の無ってないでしょ? つまり、「ある」ということを前提に、無が存在しうるんです。「ある」という概念なしに、無という概念を持ち出すことはできない。これは全部そうなんだけどね。数字とかもそうだし、例えば光と闇とかもそうだし、絶対その対立概念があって、表現可能な世界なんだね、すべてはね。だから無とか、消える世界であるニルヴァーナも、輪廻を前提とした世界であることは間違いない。つまり輪廻とニルヴァーナっていうのはセットなんだね。だから、第一段階、つまり小乗仏教の段階では、輪廻からニルヴァーナへのシフト、これが推奨されるわけだけども、大乗仏教や密教においては、そのニルヴァーナと輪廻の両者を超えなきゃいけないんだ、という発想になるんだね。それが本当の意味での心の本質につながると。

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