解説「王のための四十のドーハー」第五回(5)
【本文】
冬の風に震え
柔らかい水面は、氷となる
概念に乱されて
形なき心の本性は、氷のように固くなる
はい。つまり、こういうね、非常に短い、そしてシンプルな言葉で、まあ、重要な真理をボンボンボンと表わしてるのがこの歌の特徴だね。
これはですね、まずここで「氷」という表現をしてるのは、二つ意味があると思います。一つは外的な意味、もう一つは内的な意味です。
これは何かっていうと、「形なき心の本性」。われわれの心の本質っていうのは、水のようなものだと。それは透明な水ね。透明でなんのけがれもない水のようなものであると。
で、水というのは、皆さんも知ってのとおり、なんていうかな、形がない。例えばコップに入れればコップの形になるし、洗面器に入れれば洗面器の形になる。定まった形はない。しかしそれが冷たい風、冬の冷たい風にあおられ、凍るわけだね。凍ることによって何が起きるかっていうと、まず固定されます、形が。で、分離されます。分離されるってどういうことかっていうと、例えば氷がある。氷一個だったら一個なんだけど、それをバチッてかち割ったとするよ。粉々に、二十個ぐらいの破片になりました。はい、この瞬間、もうこの二十個は、それぞれの個になるよね。水の場合は違うでしょ。水を、例えば海の水があって、その海の中でバシャバシャバシャバシャやっても、すぐに一つに戻るよね、その水しぶきみたいなものは。でも氷というのは、いったんバラバラにしてしまうと、個性というのができてしまうんだね。この一つの表現は、外的な世界の比喩です。
どういうことかっていうと、仏教においては、いいですか、皆さんよく、聞いたことあるように、すべては心の現われですよっていいますね。この世はすべて幻です、それは心が現わした幻にすぎませんよ。――さあ、この言葉を聞いて、ストレートに受け入れられる人と受け入れられない人がいます。わたしは、これはストレートに受け入れられたんだね。だからそれは受け入れられるもんだと思ってたんだけど、いろんな話をすると、人によっては受け入れられない。つまり、全く分からないって言うんだね。「だって、いや、先生、だってこれ、あるじゃないですか、ここに」と。「これが幻とか、心の現われって意味が分かりません」と。ね。心がここにあって、で、こういう外的なものが、どうして心の現われなんですかと。
つまりガチガチにあまりにもこの世を信じきってる人っていうのは、もう全く意味が分からないんだね。この世が幻影とか夢って、どういうことですかと。で、それに対する一つの表現が、今の話なんだけど、つまり心っていうのはほんとにとらえどころがない、実体がない。でもこの世ってあるじゃないですかと。これがまさに、水が冷たい空気によって冷やされ、固体化された状態ですよと。つまりわれわれの心っていうのは冷え、冷えたことによって、このガチガチの氷のような外界ができあがってるんですよ、という表現だね。
ここで問題がある。この冷えるっていうのは、これも、あいまいな例えではないんです。どういうことかっていうと、冷えるってどういうことですか? 冷えるっていうのは、言い方を換えるならば、エネルギーレベルが下がるっていうことです。つまりエネルギーレベルが下がることによって、この現象界においては、いわゆる三態の変化っていうのが起こる。つまり、気体は液体となり、液体は固体となる。つまり何を言ってるかっていうと、粗雑化していくんです。われわれのエネルギーレベルが下がることによって、現象は粗雑化するんです。で、もちろんわれわれの心も粗雑化するんです。でもさっき言ったような、個と個――わたしはわたしですよと。あなたは他人ですと。あなたは好きですがこの人は嫌いですとか、あるいは「世界はこうである」っていうもうガチガチの、全く変化のない見方、これが始まるんだね。
じゃあ、エネルギーレベルが下がるってどういうことですか? それは、また話が広がるけど、ヨーガ的なチャクラの理論で言うとよく分かる。つまりチャクラの理論で言うと、エネルギーレベルが下がり、意識やエネルギーが下のチャクラに行くほど、粗雑な煩悩がその世界を占めることになる。つまり逆の言い方をすると、われわれが粗雑な煩悩に心を奪われれば奪われるほど、エネルギーレベルは下がるんです。
一番粗雑な煩悩は、いつも言うように、憎しみや怒りです。怒りとか嫌悪とか憎しみにわれわれの心が覆われると、われわれのエネルギーレベルは下がり、そして冷え、冷えることによって、すべてがガチガチに固まります。だいたい怒りっぽい人ってそうでしょ。憎しみが強い人って、非常に観念が強い。例えば「あの人こうなんです、こうなんです」とか言ってきて、「いや、そうじゃないよ」と、「あの人もこういうふうに優しく言ってくれただけかもしれないよ」って言っても、「そんなことありません!」と。「絶対こうなんだ!」と。自分の世界観を崩そうとしない。つまりその冷えによって、エネルギーの低下によって、もう世界が固定されて見えてるんだね。
二番目に低いのは、これは性欲とか愛情欲求の世界。つまりスワーディシュターナ・チャクラの世界ですね。これも、エネルギーレベルを下げる。で、三番目に低いのが、物欲であるとか貪りですね。全部自分のものにしたいっていう気持ち。つまり簡単に言うと、いつも言うように、この怒りと、性欲や愛情欲求、そしてまあ貪りっていうか独占欲っていうか。この三つにわれわれの心が縛られたことによって、われわれの心は急速に冷却され、で、本来もっと自由だった心はどんどん固まり、その表現がこの世界なんです。ね。ガチガチでしょ? 変わらないでしょ?
例えばさ、われわれが死んで、バルドと呼ばれる死後の世界に入りますっていわれるね。このバルドっていうのは、まだね、流動的なんです。だからね、すぐ変わるんです。例えばバルドに皆さんが入って、例えば、そうだな、Iさんがね、死にましたと。バルド入りましたと。で、Iさんが生きてる間に怒ってばっかりいたそのカルマによって、憎しみの地獄のバルドがワーッて現われたとするよ。「うわー! 苦しい! 地獄の獄卒だ! 炎だ! わー!」ってやってるときに、ふと修行してたことを思い出してね、慈悲の瞑想とか思い出したとするよ。で、「衆生の苦しみを背負いたい」と思った瞬間、すべてが楽園に変わります。これがバルドなんだね。非常に流動的なんです。だから固定されてないんです。ちょっとでもわれわれの心が変われば世界も変わってしまう。これがバルド。これが、まあ、どっちかっていうと、まだ心の本質に近い世界なんだね。でもわれわれが生まれ変わってしまったら、もうそこは固定された氷のような世界なんで、もう皆さんが見てるようにガチガチなんです。変わらないんです。これが一つの表現だね。
だから逆に言うとわれわれは、この逆のプロセスを進まなきゃいけない。つまり意識レベルを上げることによって、つまり、もうどうでもいいような、憎しみであるとか、愛情とか貪りとかにはこだわらずに、より高い意識に自分を持っていくことによって、あるいはもちろん物理的な修行とかもすることによって、エネルギーレベルを高める。
だからね、いつも言うけども、ヨーガをして――物理的な話になるけども――ヨーガをして体に熱が出る。これはとてもいいことなんです。つまりわれわれのエネルギーレベルが上がってることを意味してる。必ず――もちろん途中段階でね、例えば左気道の浄化をしてるときに体が冷えたりとかはするけども、まあ、それは途中段階であって、全体的にいうと、熱がバーッて出てきます。で、意識も非常に高いところに引き上げられる。そうすると、まあ比喩だけども、この氷のような世界がだんだん溶けてきて、水のような状態になります。つまりわれわれの心が――もうわれわれはこの人間界にいったん結び付けられちゃってるから、この人間世界がこうぐにゃぐにゃ変わることはないけども、でもなんていうか意識としては、非常に自由な意識になってきます。もうほんとに、なんていうかな、いろんなものをある意味、そうですね、固定的に見ない、ありのままに見れるような意識状態がやって来る。で、もちろん自分の心も観念で縛られてないから、ある意味非常に幸福ですね。なんていうかな、いつもこう、ちょっと解放された、自由な意識がある。
で、さらにこれを、エネルギーレベルを高めるとどうなるか。当然、気体化します。まあ気体化、プラズマ化すると。つまり気体化した段階で、これが完全な空の境地だね。つまり水というのはまだ流動性はある。形はある。固定化はされてないけども、ある種の流動的な形を持ってる。でもそれが空に還元された段階で、つまり水蒸気になった段階で、もう一切は一つになって、なんの形もない空間に還元されるっていうか。これが最後の修行の段階ですね。
これは一つの物理的な比喩だけども。われわれはこのプロセスを逆に歩まなきゃいけないわけですね。
-
前の記事
解説「王のための四十のドーハー」第五回(4) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第八回(4)