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解説「王のための四十のドーハー」第五回(10)

◎最高の宝石を見つけ出す

 はい。ちょっとまた話が広がっちゃいましたが。この最高の宝石を、だからわれわれは見つけ出さなきゃいけない。それが悟りなわけだけども、でもそれは、ちょっと話としてまとめるとね、最初はそれは不可能です。理論上は可能であっても、現実的にはなかなか難しい。だから最初は、まあ、基礎的な修行をわれわれはひたすら固めなきゃいけない。つまりこれはどういうことかっていうとね、基礎的な修行を固めるイコール何が起きるのかっていうと、泥水がちょっとずつきれいになってくるっていうことなんです。もうちょっと別の例えを言うと、これもいつも言ってるけども――これ、一つの例えとして聞いてください。湖があります。はい、そして、湖の奥にダイヤモンドが一個落っこってます。このダイヤモンドこそがわれわれの心の本性ですよと。そして、さっきも言ったようにこのダイヤモンドっていうのは、この湖がいかに汚れていようが、ごみやヘドロでいっぱいであろうが、ダイヤモンドの本質は全く変わりません。で、このダイヤモンドをつかむことが悟りなんだね。
 さあ、ここで問題がある。ここでいってるマハームドラーやゾクチェンの教えっていうのは、この答えを最初に言っちゃってるんです。つまり、「あなた、この湖の奥にダイヤあるよ」と。ね。ダイヤモンドがありますよと。さあ、だから潜って取って来いと。これがマハームドラーやゾクチェンなんです。で、ここで、普通は無理だよって言ってるのは、つまり偉大な師匠がいて、この師匠は正確にどの位置にダイヤがあるかを知っていて、そしてこの弟子の潜水能力とか、あるいはそのときの湖の状態も知り尽くしていて、例えばちょうど風が収まり、湖がちょっと透明度が増してきたときに、「今だ、潜れ!」と。「行け!」といって、ワーッて行ってつかんできたと。これなんだね。これはなかなか難しいでしょ(笑)。で、普通はそうじゃなくて、われわれは本だけ読んで、「あ、われわれの心の本性はダイヤモンドなのか」と。「分かりました」っていって、やたらめったらに、ただ無鉄砲にその泥の湖に沈む。潜っていくと。でね、そうだな、ものすごい、宝くじが当たる以上の確率で――まあ、もちろんもっと少ない確率だろうけど、もしかするとつかめるかもよ、ダイヤを(笑)。たまたまね、手を伸ばしたらほんとにあるかもしれない。でもそれは非常に確率は少ない。普通は、行ってもそんなものはない。ただ自分がよりけがれにまみれちゃうだけだね。
 だから普通は、まずはそこにダイヤがあるんだよっていう真実は頭に入れといて、その上で、その泥水を、泥の湖をきれいにする作業に入んなきゃいけない。どんどんきれいにしましょうねと。どんどんどんどんきれいにしましょうねと。はい、まず、泥があるんだったらその泥を取り除きましょうと。あるいは湖がかき乱されて湖底の砂が舞ってるんだったら、できるだけ湖を静めましょうと。あるいは風が吹いてるんだったら風を止めましょうと。あるいはマグマとかで沸騰してるんだったら、これは怒りの表現なんだけど、怒りを静めましょうと。あるいはさまざまな藻やヘドロとかがあるんだったらそれを掃除して取り除きましょうと。こうしてできた、透明な、しかも静まった湖、しかも色が付いてない。この色っていうのは偏見や執着の象徴なんだけど。色が付いていても中がよく見えない。だから色も取りましょうと。で、透明で静まった湖、これが、われわれの心の純粋な状態。
 でもこれも悟りではないんです。これはヨーガ的にいうと、サットヴァな状態です。サットヴァと呼ばれる純粋なエネルギーに満ちた状態です。でも悟りではない。悟りではないけども、透明だから、奥にあるダイヤが見えるんです。「あ、あったじゃん!」と。で、つかむことができる。だからこの、湖を透明にする作業、これが日々皆さんが行なってるさまざまな角度の修行なんだけどね。教学もそうだし礼拝もそうだし、瞑想も呼吸法も、あるいは日常生活における自分の心を訓練していく修行もね。こういったことがわれわれの心を透明にする。そして、何度も言うけども、ほんとはわたしたちの心の本性は、輝ける悟りそのものなんだよっていうのは頭で理解しといて、で、この二つが合一するときがきます。つまりわれわれの心の純粋度が、ダイヤモンドを発見するときがやって来る。
 だからこっちの方が実質的な修行ですね。だからそのような実質的な修行を固めつつ、そして、もし皆さんにそのような縁があるならば――縁っていうのはつまり、神からの祝福、仏陀からの祝福があるならば、おそらくある段階で、瞬間的に悟るでしょう。どういうことかっていうと、湖を完全に透明にしなくても、見つけるかもしれない、ダイヤをね。それは分からない。
 それはまさにね、なんていうかな、単純に言うとね、祝福待ちなんです(笑)。これについてはもう完全に受動的なんです。もう、おまかせなんです。だからそれまでは一生懸命頑張る。一生懸命頑張って、神があるときパッと祝福を与えてくれる。もう祝福待ちっていう感じだね。だから自分がやるべきことはもう目の前の課題、なすべき修行とか自分の心の課題を日々こなしていくと。で、あるときパッと祝福が生じ、自分の心の本性が現われるっていうことですね。

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