解説「王のための四十のドーハー」第二回(9)
【本文】
人間はその知性によって、苦しみを作る
無智な動物たちには、そのような苦しみはない
浅はかな知性を持つ者は、この世のものに強くとらわれ続けるが
真の智慧ある修行者は、空の甘露を飲む
はい。これも同じように「とらわれ」っていうのがテーマになっていますが。ちょっとこれも、逆説的なっていうか、ちょっと変わった例えを使って、
人間はその知性によって、苦しみを作る
無智な動物たちには、そのような苦しみはない
――じゃあ動物はいいのかっていう話になっちゃうけど、もちろんそういう意味じゃないね。つまり人間っていうのは、知性があるがゆえに、動物が持ってる苦しみプラス、多くの苦しみを持ってるんです。もちろん逆に多くの喜びも持ってるんだけど。あと多くの可能性も持ってるんだけど。つまり、分かるよね。動物っていうのは非常に、原始的な、あるいは感覚的な苦楽が中心なんだね。つまり、おいしいものを食っておいしい、まずい。セックスで気持ちいい。あるいは殴られたり敵に食われたりしたら痛くて苦しい――こういうのしかない。あるいはまあ、非常に単純な恐怖とか、単純な希望とかあるかもしれないね。でもそれくらいだと。でも人間っていうのは、さっきも言ったけど、多くの概念を持ち、「こうなったらいいな」「こうなったら嫌だな」――ね。そんなのばっかりだと。
わたし、いつも思うけど、お金とかまさにその代表的なものだよね。例えば銀行にお金があって――まあ、あるいは株とかそうだよね。株があって、日々株の変動を見てると。「あ! 大損した」「ああ、減ってしまった」「ウワー!」ってもう、「ああ、なんてことしてしまったんだ」って悲しむ。でもですよ、自然現象的に何も変わってないでしょ(笑)。つまり約束事ですよね、全部は。ね。お金っていう一つのシステムがあって、ここの株がこう落ちるとあなたの持ち分は減ったっていうことになりますよっていう約束事の中で苦しんだり喜んだりしてる。これはだからお金っていうのはとても分かりやすいっていうか、代表的なこの人間の持つ概念的苦楽だね。
もちろんそれだけじゃない。ほとんどの人間の苦しみは概念です。もちろん実際に病気になったとか、けがをしたとか、あるいはセックスをしたとか、っていうときの直接的な苦楽はあるけど、ただその直接的な苦楽もかなり概念で覆われてるといっていいね。例えば性的なものもそうかもしれない。つまり直接的な、物理的なその快楽だけではなくて、いろんなイメージであるとか、つまり「こうなったらおれは気持ちいい」とかね、「こうなったらいいなあ」とかいうイメージでかなり覆われてる。あるいは食べ物もそうだよね。いつも言うけど、わたしはまさにそうだったけど、もう口に入れて舌に付くか付かないかで「うまい!」とか言ってる(笑)。完全にそれ、概念なんだね。イメージがもう優先してるっていうか。われわれの人生っていうのはほとんどはその概念的な苦悩と喜びでいっぱいだと。
だから逆に、人の苦悩っていうのがちょっとあんまりよく分からない場合もある。「あれ、なんであの人あれで苦しんでるんだろう?」――つまり、その人なりの概念の世界があるんだね。だからその人にとってはその状況って非常に苦しい。あるいは逆の場合もあるよね。その人にとってはその状況が非常に楽しくてしょうがない。でも周りの人から見ると、「なんであれであの人あんなに幸せなんだろう?」と。
で、それが動物に比べると、人間は、それだけ余計な苦悩が多いですよって言ってる。でもそれは別に動物が優れてるって言ってるわけではない。つまり動物っていうのは逆に――動物っていうのはね、ここでいう動物っていうのは、まあ「動物」って訳してあるけど、ヒンディーやサンスクリット語のもとの言葉で言うと、「パシュ」っていうことです。このパシュっていうのは、どっちかっていうと家畜みたいな言葉で、つまり、もうちょっと直接的に言うと、「縛られた者」っていう意味です。縛られた者。つまり動物っていうのは完全に縛られてるんです。それは何かっていうと、習性に。習性にガチガチに縛られてる。よって、単純な苦楽しかないんです。だからこれは決していいことではない。いいことではないんだが、一つの例えとしてね、人間の方が苦悩が多いよと、それは概念がいっぱいあるからだと。
で、ここで言いたいのは、つまり、動物と人間の関係、それから聖者と人間の関係を、パラレルにしてリンクさせてるっていうか。つまり、聖者にも、まるで動物のように概念的苦悩はないんです。しかし動物のように無智なわけでもない。縛られてるわけでもない。しかしちょうど、人間と動物の関係のように、人間には概念的苦悩があるが、聖者には概念的苦悩はない。これが第一の意味ですね。これも分かりますね。つまり動物――あえてここで動物っていう例えを出してるんだけど、聖者の場合はもちろん、動物のように縛られてるわけでもない。つまり習性に縛られてものが考えられないわけではない。ものは考えられる。あるいは習性から自由になった。しかし概念からも自由なんです。概念から自由になった場合、二つのタイプがあります。ただ概念から自由になっただけの人。もう一つは、概念から自由であり、かつ、概念を自由に操る人。で、もちろんその中間もある。
で、一番最初の、ただ概念から自由な人っていうのは、社会に出るとその人は、ちょっとおかしな人に見えます。これはよくチベットとかで風狂の聖者とかいうわけだけど、ちょっとばかに見える。完全に概念から外れちゃってるから。この世の中にその人がいると、もう、ちょっと狂った人に見える。なんかたまにチベットの本とかにも出てくるけど、言ってみればもう獣のように見えるといってもいいかもしれない。人間界で「こうしなきゃいけない」「ああしなきゃいけない」っていうところから完全に解放されてる。で、それはね、チベットみたいな社会だったら、その人もそれはそれで救済者になる。なぜかというと、チベット人――今はちょっと違うかもしれないけど昔のチベットは、その人が悟ってるっていうことを、見抜くだけの目が社会にもあったんです。だから、みんなその人を尊敬する。一見ただの狂ってるだけなんだけど、「ああ、あのようにわたしたちもなりたいものだ」っていう感じになる。
それはそれでいいんだけど、実際はもちろん、例えばこの日本みたいなガチガチ観念的な社会で人々を救おうとしたら、自分が単に観念・概念から解放されるだけではなくて、概念を自由に操れる者にならなきゃいけない。操るって、この自分の概念をですよ。自分は概念から解放されてるんだけど、概念に飲み込まれない程度に、自分の概念を操る。
つまりどういうことかっていうと、この人々の前ではこのように振る舞わないと、この人を救えない、っていうことが考えられるかどうかです。で、あまり考え過ぎるとそっちに引きずり込まれる場合もあります。ね。もうガチガチになっちゃって、悟りが消えてしまう場合もある。だから悟りの意識、概念から解放された状態を残しつつ、しっかりと概念を操る――これは最高だね。でもなかなか普通そこまでは行けない。
だから、どっちも中途半端じゃしょうがない。――もちろん完全に、なんていうかな、概念が消えたわけではない。ある程度はコントロールできるけど、でも普通の人から見たら「ちょっとあの人いっちゃってるかな」とかね(笑)、「ちょっとあの人、普通の人となんか違う感じがする」っていうような感じで、でもこの世で人を救う力もあまりないとか、それじゃしょうがない。
だからそれは、さっき言った慈悲の修行とか、二元的な修行をして――つまりね、二元、さっきからわたしが言ってる二元的な修行っていうのは、この世における「わたしづくり」なんです、わたしづくり。つまり、一つの修行は、「わたし」から解放される修行ってあるよね。わたしっていうのはないんだと。つまり無我の修行。で、もう一つは、菩薩としてのわたしをつくる修行。このわたしづくりをしっかりやらないと、なんていうかな、悟ってはいるが、ちょっと使えない人になってしまう。
実際ね、さっきの話じゃないけど、お釈迦様の時代にしろ、チベットにしろ、そういう人っていっぱいいたと思うよ。あの人は聖者だと。悟りを得てると。でも使えないと(笑)。そういう人、当然いたと思うんだね。その逆もいたと思う。あの人は素晴らしい。人々の役に立っていると。しかし悟りがないと。だから肝心なところでは役に立たない。つまりほんとに例えばみんなを悟りに導くところまではいけない。けど、実質的な役にはたくさん立つ。で、その人がいるおかげでみんなが修行しやすくなるとかね。
だから、どっちかに偏るとそうなってしまう。だから、究極的な概念からの解放を目指すと同時に、この概念の世界で、素晴らしい自分をつくり上げていく。この両方の作業をわれわれはしなきゃいけない。
だから特に、現代みたいな、日本に生まれて修行するわれわれにとっては、まあ、それが一つの大きな課題となると思うね。だって、少なくともさ――ここには例えば外で働いてる人、あるいはカイラスでヨーガのインストラクターしてる人、両方いるわけだけど、どっちにしろ概念を捨てられないでしょ。ね。当然普通の職場で働くには――もちろん菩薩になるのは素晴らしい。しかし概念を捨ててしまったら、最低限の人付き合いさえもできない。仕事ももちろん分からない。だって概念捨てたら仕事になんないよ。ね(笑)。言葉自体がすべて概念だから。言葉も理解できなくなってしまう。だからそうじゃなくて、慈悲の塊、菩薩としての自分を作りながら、同時に概念から解放されていく。インストラクターもそうだよね。例えばもう慣れてる人だったらいいかもしれない。しかし無料体験で来ました、あるいは新人ですっていう人の前で、全く概念から解放されてしまったら、相手はただ、「あ、ここの先生はみんな狂ってるのかな?」って思ってしまう。だから、「あ、こういう人の前ではこのような振る舞いをしなきゃいけない」っていう自分っていうのは当然つくらなきゃいけない。
で、特に、なんていうかな、途中段階、概念を解放してる、概念から解放されてる途中段階が最も最悪です。つまりこれは、みんなも分かると思うけど、途中段階っていうのは、徐々に概念から解放されてきたが、完全に解放されてるわけではない。で、表面的な概念が薄れてるがゆえに、隠していた内側のけがれが出てきてる状態。これを放っとくと、ただの、ちょっとわがままな人になります。あるいは、手の付けられない――まあ、人によるけどね――すごい怒りっぽい人とか、あるいはすごく嫉妬深い人、プライドの高い人になってしまう。でもこれは、わたしから言わせると、何度も言うけど、菩薩としての自分づくりをおろそかにしてるからです。つまり菩薩としての自分づくりをしっかりやりながら自分を解放していったら、あまりそういう失敗もないはずなんだね。でもこの菩薩としての自分づくりをちょっとおそろかにして、ただ解放してるから、どんどんけがれが出て、ちょっと変な人になってしまう。だから何度も言うけども、その両方をしっかりとやらなきゃいけない。
はい。これが一つの意味ですね。ちょっと、かなり広がってしまいましたが。