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解説「王のための四十のドーハー」第二回(7)

 で、これは基礎的教えです。もうちょっと、また重層的な教えで言うと、修行の道に入った者で――これは昔も今も――まあ、わたし個人もそうだったんだけど、なんていうかな、例えばミラレーパの弟子のレーチュンパとかもそうだけど、外側の世界に真理を探し求める傾向があるんだね。例えば、わたしも昔そういうところあったんだけど、なんかヒマラヤに行ったらなんとかなるような気がする。ね(笑)。あるいはチベットに行ったら、なんか悟れるような気がする。これは、われわれもそういうのってあるし、あとヨーガーナンダもそういうのあったよね。なんかヒマラヤにすごい憧れがあって、ヒマラヤに行けばなんか自分も聖者になれるような気持ちがする。あるいは、例えばわれわれ以上に、欧米人とかはもっとそういうのがあると思う。つまり欧米人にとって、日本も含めてね、東洋っていうのは非常にオリエンタルな神秘的な感じがあって、で、仏教とかヨーガを学ぶ場合はやはりそういった、まあ禅とかに興味のある人は日本に来て、とか、あるいはヨーガに興味がある人はインドに行って、チベット仏教に興味がある人はチベットに行って、で、それによってなんていうかこう、自分が悟れるような気持ちがする。で、実際にそういうフィーリングに浸る。例えば日本に来たら、なんかお坊さんの服を着て頭を剃って、ね、お寺で規則正しい生活を送る。で、それでなんか自分が悟れるような気がする。あるいはインド行ったりチベット行ったりして、その、なんていうかな、そのシステムに入り込むことによって悟れるような気がする。しかしそうじゃないんだと。悟りはインドにあるんじゃない。チベットにもない。われわれの心の本質にあるんだと。これはだからまた、修行の初歩の人への教えだね。だから、探すところを間違えるなよと。
 これはミラレーパが、さっき言った弟子のレーチュンパに言ってる。ミラレーパの一番弟子っていうのはガンポパっていう人で、これはまあ非常に優秀な、ほとんど完璧に近い弟子だったんだけど、二番弟子のレーチュンパっていうのがいて、このレーチュンパっていうのは、まあ、ちょっとある意味かわいい、生意気な弟子なんだね(笑)。ガンポパほど完璧じゃないんだけどね。いろいろプライドが高かったり師匠の言うことを聞かないときもあったりして。で、すごいインドに憧れるんです。で、師匠のミラレーパが、その必要はないと。仏陀というのはおまえの心にあるんだと。インドにあるわけじゃないと。でも、つまりインテリ的なね、その当時のチベットにとってインドっていうのはインテリ的な国だったから、つまり仏教のエリートはインド行かなきゃいけないみたいな観念があったから、レーチュンパはインドに憧れて、ミラレーパが止めてるのに、最後はもうミラレーパが根負けしてね、「じゃあ分かった。そこまで言うなら行ってこい」って感じで、ミラレーパがその止めるのを聞かずに何度かインドに行ってるんだね。で、これが――まあ、こうしてグルの言うことを聞かずにインドに行ったりいろいろしたことによって、ミラレーパは、「レーチュンパは来世、三回、ただの学者として生まれなきゃいけない」っていうことを言ってるんだね。これはとても厳しいよね。ミラレーパの二番弟子ほどの人ですよ。二番弟子ほどの人なんだけど、グルの命を破って、ただの知的好奇心によって、何度かインドに行った。それだけで、三回、修行者じゃなくてただの学者として転生しなきゃいけないっていうカルマを負ってしまったんだね。それはちょっと厳しいと言えば厳しい話なんだけど。
 ただ、そういうようなところが、特に初心者の修行者にはあるんだね。つまりなんか、ヨーガーナンダもそうだったように、フィーリング的に素晴らしい修行の地といわれてるところに行ったりすると、自分が真理に近づけるような気がする。でも、そうじゃないんだと。真理というのは、悟りというのは、自らの心の中にこそある。
 もちろんね、そうじゃなくて、自分と縁のある師匠が遠くの地にいて、で、それを確信して行くなら、それはそれでもちろんいいことだと思うよ。今チベットに住んでるなんとかっていう人が自分と縁のある師だという確信があると。で、それを追いかけていく。これは別にいい。そうじゃなくて、フィーリング的にね、外側のどこかに悟りがあるような感じがして、それを追い求める、なんていうか、修行のやり方っていうのは、それは間違ってると。真理そのものは自分の心の中にあるんだっていうことだね。

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