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解説「王のための四十のドーハー」第二回(1)

解説「王のための四十のドーハー」第二回

 今日はまあ、二回目ですが、結構久しぶりでもあるので、もう一回ちょっと簡単に説明しますが、サラハっていうのは、かなり伝説的な、昔のインドの仏教の聖者ですが、特にマハームドラーと呼ばれる、まあ今チベットのカギュー派に伝わっている教えの、偉大な、まあ、なんというかな、過去の偉大な大成就者といわれています。で、この『王のための四十のドーハー』っていうのは何かっていうと、ドーハーっていうのは、心から流れる悟りの歌ですね。ミラレーパの歌みたいな感じで。だからこれはまあ、なんというか、実際には詩というよりは歌ですね。実際に節をもって歌われる歌です。ミラレーパは歌も非常にうまくて声も非常にきれいだったといいますが、自分の心の中の悟りの境地みたいなものを、自然に口から出てくる歌によって表現するんだね。それをドーハーといいます。
 で、この『王のための四十のドーハー』が歌われた背景っていうのは、まずこのサラハ――この間もちょっと言ったけど、もう一回簡単に言いますけど、サラハっていうのはいわゆるインドの伝統的なブラーフマナとかブラーフミンとかいわれる僧侶階級の、かなり、なんというかな、名門の出だったといわれています。つまりインドにおいては、そのヒンドゥー教の中で、まあ、かなり名門の出ですね。日本的に言うと例えば浄土真宗であるとか、そういう名門のお坊さんの、なんていうかな、大僧侶の息子とかね、まあ、そういう感じだよね。伝統的な宗教家、特に国家的なね、ヒンドゥー教的な宗教の流れをくむエリートだった。
 で、まあ実際に偉大な智慧と、ヒンドゥー教の知識を持ってたんだけど、途中から、まあ、仏教に転向するわけですね。仏教の師について、仏教、特に、まあ、もちろん基礎的な原始仏教的なものから大乗仏教的なもの、そして密教的なものに至るまで、まあ、身に付けていった。で、その段階でもある程度素晴らしい修行ステージにあったんだけど、あるとき道端で、一人の弓矢作りの女性に出会うわけですね。弓矢を作る職人の女性。
 で、この間も言いましたが、インドのカーストっていうかな、昔のインドはもう生まれながらに、もうその人の人生っていうのは、人生で行なう仕事とか身分っていうのは完全に決められてて。で、われわれ日本人から見るとちょっと、なんでそれが上でそれが下なのかよく分かんないっていうところがあるんだけど――例えばさ、われわれから見ると結構偉大な職業と思われる医者って、結構低い職業なんだね、例えばね。カーストでは。あるいは床屋とかも低い職業になるんだね。何を基準に低い高いになるのかよく分かんないんだけど、つまりインド独特の宗教観、あるいは昔からの伝統に基づいて、この職業は低い高いとか決められてる。で、不浄観ってすごいから、その低いとされてるカーストの人とは、例えば高い、このサラハみたいなブラーフミン出身の人とかね、高い階級の人は、もう一緒にいることさえ駄目だ、というくらいのすごい観念があったんだね。
 で、この弓矢作りっていうのもやはり低いカーストといわれていた。だから言ってみれば身分の低い女性です。身分の低い女性が弓矢を作ってる。で、そこをサラハが通りかかって。で、実はこの女性はダーキニーだったんですね。つまりサラハを覚醒に導くためにやってきた、まあ、格好は普通の身分の低い女性なんだけど、中身は偉大なダーキニーだった。で、サラハも偉大な智慧を持っていたから、その女性を見て、その女性がやってるいろんな仕草を見て、その象徴をすべて見抜いたわけですね。この人はただの弓矢作りの職人ではないと。偉大な智慧を持ったブッダだと。で、そこで、弟子入りするわけだね。で、その女性はサラハを覚醒に導く。
 で、それからというもの、サラハは――まあ、もともとは、さっき言ったようにヒンドゥー教の素晴らしい名門の出だったのが、それを捨てて仏教徒になったんだけど、その仏教徒の、普通の仏教徒としての暮らしも捨てて、墓場で、弓矢作りの女性と一緒に裸で踊ったり、歌ったり、なんか普通に見たらちょっと狂ったような感じになっちゃった。
 で、このサラハっていう人は、何度も言うようにもともとは伝統的なヒンドゥー教における素晴らしい素養を持った若者だったので、その国の王様のお気に入りだったんだね。王様はそのサラハをとても気に入ってて、将来的には、自分の娘の、つまり王女の婿として迎え入れたいと思っていた。そのサラハが、いつの間にかヒンドゥー教を捨てて仏教に行ってしまい、それどころか、その正統的な仏教の修行も捨てて、墓場とか火葬場で、なんか身分の低い女性と歌ったり踊ったりしていると。いったいどうしてしまったんだ、ということで、自分の臣下たちをそこに送るわけだね。それを調べさせに行った。
 そしたらそこでサラハはその王様の臣下たちに、百六十の歌を歌ったっていうんだね。百六十の歌を歌って、で、それによって、その王様の臣下たちは悟ってしまった。で、悟ってサラハと一緒に火葬場で歌って踊り始めた。
 で、なかなか臣下たちが戻ってこないので、今度は王様は、サラハにあげようと思っていた自分の娘を行かせた。つまり王女様を行かせた。そしたらその王女様に対してサラハは、今度は八十の歌を歌ったんだね。なぜ臣下に対して百六十、王女に対して八十だったかっていうと、つまり、この王女っていうのは非常に素質のある女性だったんだね。つまり、普通の人の半分の八十の歌でよかったんです。八十の歌で悟ることができた。で、王女も悟って、サラハと一緒に、その悟りの歓喜の中で歌い踊り、帰って来なかった。
 で、最後はとうとう王様が自分で出向いたわけだね。王女も臣下たちも帰って来ない。いったい何があったんだと、サラハのもとに行った。で、そこでサラハが王のために歌ったのが、このテーマである四十の歌なんです。分かると思うけど、王の方がさらに、王女様よりも素質があった。だから四十でよかったんです。つまりたった四十の歌を聞いて、王様も悟ってしまった。そういった由来を持つ教えがこのサラハの『王のための四十のドーハー』ですね。
 で、この教えは、さっきも言ったように、インドとかチベットにおいては非常に重要視されている教えです。特にマハームドラー系統の教えの中ではとても重要視されてる。しかし日本ではほとんど知られてないね。
 で、この解釈もいろんな解釈が可能なので、まあ、あくまでも――いつもそうだけどね――わたしの修行経験とかも加味した、まあ、ちょっと自由な解釈としてこの勉強会は聞いてください。
 ただ、この素晴らしい教え、マハームドラーの真髄が書かれてるようなこの教え、しかし日本ではほとんど知られていないものと、皆さんが出合えたっていうこと自体がね、とても、なんていうか、素晴らしいことだと思います。

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