解説「王のための四十のドーハー」第七回(6)
【本文】
真鍮を金と思いこむように
自分の体験を、究極の完成へ導く道だと考える
それは、夢の体験にとらわれるようなもの
心身を無常だと説きながら、その喜びを永遠のものと呼ぶ
はい。これもまたね、同じような連動した例えになってきますが、まあ、さっきは「ガラス玉をエメラルド」って書いてますが、今度は「真鍮を金と思い込む」と。はい、これもね、だんだん、さっきから言ってるように、ちょっと高度な注意になってくるんだね。今日のね、最初の方では、はい、外側の儀式とかかたちだけのそういうことをやってもしょうがないですよと。内側の火を燃やして甘露を落とすことによって、内側の経験を深めましょうっていうことが出てきた。でもだんだん今度は、「自分の体験を、究極の完成へ導く道だと考えてはいけない」と。つまりまだそれは途中段階にすぎないのに、あるいは全然まだまだ本質的な経験ではないのに、その経験にちょっととらわれてしまう。あるいは経験を、ものすごく、「この経験は究極の完成への道なんだ」って思い込みたいっていうかな。それがここで言ってる、「真鍮を金と思いこむように」っていうことですね。
これも、だからここで書かれてるのはさ、全部読んで分かると思うけど、すごくあいまいなんだね、書かれてることがね。何が偽物であって何が本物であるっていうのは書かれていない。だからそれは細かい話っていうのはまさに師と弟子との間での、もうちょっと細かいアドバイスになるわけだけども。だからこれは一般論的な話としてね、われわれが気を付けなきゃいけないこと。誤った体験、もしくはあまり実は大したことがない経験。しかしそれを素晴らしい悟りへの道と思い込む。もしくは、まあ正しい経験ではあるんだが、もっと次に進まなきゃいけないのに、そのある段階の経験にとらわれ、それが素晴らしい悟りの経験なんだっていうふうにとらわれてしまうと。はい、これがここでの注意点ですね。
はい、これはさっきの話からの、まあ流れみたいなものですね。
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