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解説「実写ドラマ・ラーマーヤナ」第一回

2011年4月6日

解説「実写ドラマ・ラーマーヤナ」第一回

 はい。まずラーマーヤナの解説をすると、今日のお話は導入なのでほとんどストーリーは進んでいないんですが、これはさっきも言ったように、ラーマーヤナ自体がね、実際には非常に長い物語で、いろんなエピソードを含みつつ進んでいくので、忠実にそれを再現しようとすると、本当に少しずつ進むような感じになるんですね。で、今日紹介したのは、実は第一話ではなくて、もっと前のもあるんですね。で、それはちょっとカットしたんですけど。今日はいよいよメインテーマに入っていく部分なんですね。
 今日の話というのは簡単に言うと、ラーマが――ラーマというのは、アヨーディヤーっていうね、アヨーディヤーって現在もあるんですけども、現在、北インドの真ん中らへん、つまりヴァーラーナシーのちょっと上ら辺に、今もアヨーディヤーという土地がありますけども、昔は偉大な王国だったと。そのアヨーディヤーの王子であるラーマが、その父である王様のダシャラタ王から王位を継ぐところですね。
 つまりダシャラタ王はまだ元気ではあったんだけど、息子の――息子が四人いたんですが、その中でも最も……まあ一応ね、長男であり、かつ国民からの信望も厚いラーマに王位を与えるということを王は宣言するわけだね。そのやり取りがあったわけですね。
 で、言ってみれば今日はそれだけなんですけども、一応まあ修行の観点から見たポイントを言うとね、ここでラーマは――まあラーマというのは非常に謙虚な人なので、王位を継げと言われて、喜んだりあるいは堂々とそれを受け取るというよりは、謙虚にね、いや、わたしはまだまだ父である王に尽くしたいと言って、断り続けるわけですね。それをグル・ヴァシシュタが説き伏せるわけだね。
 ここでいうグルっていうのは、インドでは――そうですね、グルと言った場合、二つ意味があると考えてください。一つは皆さんもよく聞くタイプのグル、つまり修行のグルね。つまり人が修行者になって解脱を目指し、弟子入りすると。その場合の師匠のことをグルといいます。もう一つの意味のグルというのは、これは家庭のグルっているんだね。これも、なんて言うかな、聖なる師匠という意味では同じ意味なんだけど、別にその人が解脱とか志していようがいなかろうが、家庭に一人グルがいるんです。グルがいて、家庭のさまざまなことをアドバイスしたりとか指示したりとかする聖者がいるんだね。わたしもインドで知り合ったインド人に、うちのグルはこの人なんだって紹介されたことが何回かあるけども、そういう感じで伝統的な正統的なヒンドゥー教の家庭では、家庭のグルというのがいるんですね。で、ラーマの家系のグルがヴァシシュタという人だったんですね。
 で、そのグルが――まあグルの言葉というのは絶対なので、ラーマに、「君は王位を継げ」と。それはなぜかというと、「君の父であるダシャラタ王はもはや人生の現世的な目的はすべて達成した」と。あと一つ必要なのは解脱だけだと。だから彼は王としての責任をすべて捨ててそろそろ修行の生活に入んなきゃいけないんだと。だから入らせてあげなさいと。本当に君が王を愛しているんだったらそうすべきだ、みたいな感じで説き伏せるわけだね。
 で、さらに、普通はね、こういうのはまあそういう取り決めがあって、国民にそれが宣言されて、しばらくの準備期間ののちに栄冠式というか、王位を譲り渡す式が行なわれるんだろうけども、たまたまこの話があった日の次の日が非常に吉祥なる日であったと。つまりヒンドゥー教というのは占星術とかを使って、幸運な日っていうかな、をすごく重視するので、その次の日がすごくいい日であったと。しかもその日を逃すとしばらくその吉祥の日はないと。ね。――ということで、非常に慌ただしく、次の日にラーマの栄冠式が行なわれるということになったわけですね。
 ポイントはここなんですが、まずここで出てくる、今言ったポイントは、グルの指示であると。もう一つはヒンドゥー教の考えからいって吉祥なる、つまり縁起のいい日であると。この日にラーマの栄冠式が行なわれることになったと。

 でも、ちょっと次回以降の種明かしになっちゃうけども、まあ、もう本が出てるんで、本を読んで欲しいんですが――今回の物語の最後の方で何かおばあさんが暴れていたと思いますが(笑)、あれがせむし女マンタラーっていう人で、このせむし女マンタラーはどういう人かっていうと、簡潔に言うとね、今言ったようにラーマには、腹違いの兄弟がいるんですね。その腹違いの兄弟の一人であるバラタっていう人がいて。そのバラタのお母さんがカイケーイーというんですが、そのカイケーイーの侍女――侍女というのは仕えているおばあさん、これがこのマンタラーなんだね。で、マンタラーはちょっと邪悪な性格の持ち主だった。ちょっと種明かしになっちゃうけども、明日ラーマが、つまりバラタとは腹違いの兄弟であるラーマが王として認められることが決まったと。で、そこでそのせむし女マンタラーは、バラタのお母さんであるカイケーイーをそそのかすわけですね。
 カイケーイーという人は別に悪い人じゃないんだけど、ちょっと無智な人だったんだね。最初は、つまり自分とは違う女が産んだ子供ではあるが、でも本当にカイケーイーもラーマを愛してたので、「ああ、ラーマが王になるとはなんて素晴らしいんだ!」って喜んでたんだけど、このマンタラーがすごくそそのかして、「あんた馬鹿ですか」と。ね(笑)。あの腹違いのお妃の子供が王になったりしたら、あなたと息子のバラタはもう悲惨な人生を送りますよと。もうほんとにもう悲惨の始まりですよと。だから何とかしろって言って、いろいろ言ってそそのかすわけだね。無智なカイケーイーはだんだん何かその気になっちゃって。で、まあ、それは詳細は本を読んだり次回以降を観てほしいんですが、いろいろあって結局ラーマを追い出すっていう作戦に出て、それが成功するわけですね。
 つまり、偉大なる英雄ラーマが王になる日だったはずなのに、一転してラーマが十四年間王国から森に追放されるというとんでもない事態が起きてしまったんだね。
 で、これは言ってみれば、もしそのグルやあるいはヒンドゥー教の吉祥な日という言い伝えにのっとらず、もうちょっと待ってたら、この悲惨なことは起きなかったかもしれない。なぜかっていうと、このときちょうど当事者であるバラタは、遠い所にちょっと旅をしてたんですね。遠くの国に行ってた。で、もしバラタが帰ってきてたら、おそらくその母親カイケーイーのそのような悪行をね――つまりバラタもラーマのことが大好きだから――自分の母親がラーマを追い出すなんて馬鹿なことはさせなかったはずなんだね。でもたまたまバラタは遠くに行ってたと。しかもその遠くに行ってる日に吉祥な日がきたと。で、グルもその日にやれって言ったと。
 で、これは普通の頭で考えると、グル駄目じゃんと(笑)。あるいは占星術の吉祥な日というのは外れてるじゃんと。つまりその日にやったのに、っていうよりもその日にやったがゆえに、すべてがパーになってしまったと(笑)。ラーマは王になれなくて、追放されてしまったと。駄目じゃん、となるんだけども――おそらく皆さんは分かるでしょう。『マハーバーラタ』や『クリシュナ物語』をしっかりと読んでいる皆さんは、たぶん分かると思う。つまりそれなるがゆえにグルの言葉は正しく、吉祥な日なんだね。
 つまりまさにラーマは追い出されなきゃいけなかったんです。追い出されることによって『ラーマーヤナ』が始まるんです(笑)。追い出されることによってこの偉大なる神のリーラーが始まるんだね。

 だからこれは何回も、『マハーバーラタ』のときにも『クリシュナ物語』のときにも言ったけども、こういった物語として見るとよく分かるんだけど、つまり瞬間的な、あるいは一時的な不幸や、あるいは悪い出来事というのは、本当にそれが悪いかどうかは分からない。実はその裏に大いなる神のリーラーが潜んでいる可能性もあるんだね。
 だから結局は、結論は同じになってしまうわけだけど、結論は、さあ、いかに誠実に生きているか。誠実にというのは、例えば自分の師がいる人は自分の師に、あるいは自分の中の神への思いに対して、あるいは教えに対して、誠実に生きているかどうかなんだね。
 それを、もう一つ言うならば、信じ切れるかですね。信じ切れるかというのは、今言ったのはラーマーヤナという大いなる物語だけども、例えば同じようなことが皆さんの人生でも起こるかもしれないよ。例えばY君がね、なんかわたしにね、仮にですよ、まあちょっと何か指示を仰いだとして、わたしがある指示を出したとするよね。Y君がその指示を守った場合、守ったことによってY君が願っていたこととは全く逆のことが起きて、人生ぼろぼろになったとするよ(笑)。その瞬間、Y君はちょっと不信が出るかもしれない。または、それでも信じるかもしれない。で、信じた場合はいいんだけど、不信が出た場合、その指示とか命令から外れる場合がある。つまり、師匠はこうやれと言ったけども、とんでもないことになってきたと。だからやっぱりこっちの道を行くってなるかもしれない。これは表面的には合理的でいいんだけども、でも今の物語を聞いたら分かるように、実は、例えばわたしだったらわたしの言葉に、あるいは何か神の意思にY君が従ったときに、Y君が、今のY君の知性では全く分からないかたちで、つまり今回のラーマーヤナでいうと、ラーマが十四年間追放されるみたいなかたちで、なんらかの神の大いなるリーラーが働きだし、最終的にY君やほかのみんなが幸せになる物語が始まってたかもしれないよね。始まってたかもしれないけども、そこで例えば合理的という名の不誠実さ――現代人がよく持っている、よく口に出す、合理的という名の不誠実さによってその道を外れた場合ね、その神のリーラーが起動しないと。ね。で、表面的には、ああ、なんかトラブル収まって良かったですねってなるけども、実際には大きく神の意思から外れた状態になってしまうと。これはだからわれわれの人生でも起きる危険性がある。
 でも、もう一回言うけども、われわれは偉大な智慧の目を持っていないので、それは分からないわけだね。まあ、というよりも、ここで出てくるラーマにしろ、ほかのメンバーにしろ、みんな神の化身だったりするわけだけど、でも没入しているときは本人も分かりません。完全にその役になり切っているというか。うん。だから、ラーマでさえ分からないんだからわれわれが分かるわけがない。ね(笑)。しかしもう一回言うけども、大事なのは誠実さなんです。うん。誠実さね。
 これはまたちょっと種明かしになっちゃうんだけど、この今日の物語からさらに二、三話あとになると思うんだけど、非常にかっこいい場面があってね。かっこいい場面というのは、さっき言ったようにカイケーイーの策略によってラーマは追放されることになるわけだけど、お父さんはそれをラーマに告げるのがものすごく、当然苦しくてね、ラーマを愛しているから、もう言えなかったんだね。ラーマが呼ばれていってね、なんかお父さんが呼んでるっていうことで行ったら、お父さんは何も言えなくて、カイケーイーね、ちょっと心が邪悪になってしまったカイケーイーが代わりに言うわけですね。こうこうこういうわけで、あなたは今日王様になる予定だったけど、それはもう全部パーになったと。こうこうこういうわけであなたは十四年間森に追放になったからっていうことを言われるんだね。そうしたらラーマは、何の躊躇もなく、あるいは何の執着もなく――そこではラーマの栄冠式の用意が盛大に行われてたんだけど、それに対して何の、少しも目を向けることもなく、王がそう言うならそうしましょうって言って出て行ったんだね。
 これ、非常にかっこいいね(笑)。つまりこういう、なんていうかな、誠実さっていうか。うん。――があって初めて、神の意思は発動するんだね。それが今回だけじゃなくて全体――ラーマーヤナ、まあマハーバーラタもそうですけど、ラーマーヤナの全体にかかっているテーマでもあるんだけども、いかに誠実に神の意思に沿って生きるか。ね。言い訳をせずに、あるいは疑念、合理性という名の疑念を差し挟まずに誠実に生きるかが大事なんだよということですね。はい。

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