yoga school kailas

解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(4)

 はい。次は動物。「動物にも生まれず」と。じゃあKさん、動物に生まれるとなぜ修行ができないか。

(K)恐怖と無智。

 そうだね。恐怖と無智っていうのが、まあ動物のカルマだと。動物の心っていうのは、まさに今言った、恐怖や無智にずーっと覆われてる。まず恐怖からいうと、これは食物連鎖、弱肉強食の恐怖だね。つまり常に、おれはやられるんじゃないか、やられるんじゃないかっていう恐怖に苛まれてる。まあもう一つ言うならば、今日のエサを捕れるだろうかっていう思いでも頭がいっぱいであると。それからもちろん、実際的に非常に大変だと。動物っていうのは。ほんとにエサ探すの大変だし、で、ほんとにただ恐怖があるだけじゃなくて、実際に敵はいっぱいいるし。そんな状況で生きてるから、なかなかそんな暇がない。で、仮に暇があったとしても、まあペットとかはある程度暇があるわけだけど、暇があったとしても、動物は決定的に無智なわけだね。つまりもう物理的にですよ、動物っていうのはもう動物っていうボディに魂が閉じ込められてしまってるから、このボディで生きるしかないんだけど、われわれの魂っていうか心の奥深いところっていうのは自由なんだけど、肉体に魂が入ってしまったら、少なくともその生の思考は脳で行なうわけだね。脳っていうのはさ、本質的なものではない。しかし、なんていうかな、今生におけるデータ処理機能みたいなものだね。で、それが動物は決定的に小さい。つまり非常に性能の悪いコンピューターを積んでるようなものです。よって考えられない。
 わたしも瞑想して、過去世で動物だったことを思い出したことがある。頭が働かないんですね。「何だったかなあ?」って感じ。「ああ、腹減ったー」と思って食って、で、例えば誰かがバーッてこう横取りしようとして、「おまえ、あっち行け」と。「あいつ、許さねえぞ!」と。「今度会ったらもう八つ裂きにしてやる」とか嫌悪で燃えると。で、パッと見るとエサがあるから、「あ、エサだ!――バッ――うめえなあ。……おれ、さっき何か考えてた気がするなあ?」(笑)。「何かしてやるって思ってた気がするんだけど、何だったかなあ……まあいいか」――とぼとぼと歩きだす。こういうことの繰り返しなんだね。
 つまり、なんていうかな、その人のキャパシティ、心のキャパシティがどれだけあっても、その小さな脳の世界に縛りつけられちゃってるから、もう無理なんだね。
 ただね、お釈迦様の過去世とか見ると、動物の世界に生まれて動物を救ったっていう話もある。だから完全に無理なわけじゃない。つまり動物っていうのは相当脳は小さいが、しかし例えば動物同士である程度のやり取りができるし、で、若干の思考はできるよね。例えばカラスなんか頭がいいとかよく言うけど、カラスにいたずらすると必ずいろんな、知能的に仕返ししてきたりするとかね。つまりまあもちろん人間から比べたら全然無智なんだけど、でもある程度の簡単な思考とか、あるいは簡単な分析とかはできる。だからまあ、カルマのいい動物っていうか、あるいは真理と縁のある動物っていうのは、動物界に生まれた偉大な魂によって救われるっていうことも、まあ稀にはあるのかもしれない。しかし人間みたいに、一生懸命いろんなことを思索して自分のけがれを浄化するとかっていうことは無理ではあるね。せいぜい、なんとか悪いことせずにいいことして生きていく、みたいなことになるだろうね。
 はい。だから動物に生まれても非常に修行は難しいが、われわれは動物でもなかったと。

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