解説「八十四人の成就者たち」第一回(1)
2008年11月26日
解説「84人の成就者たち」第一回
はい。今日は『八十四人の成就者たち』。ちょっと変わったテーマですね。まあ成就者、つまり修行の達成をした人たちの物語なんですが、ちょっと変わった物語です。
これは、まずその背景から言うと、まあ簡単に言うと密教行者ですね。で、この密教行者っていうのはどういう人たちかっていうと、まず、これは何回か話してますけども、インドの歴史を言うとね、まず大昔、みんなも聞いたことがある『ヴェーダ』っていう聖典が生まれました。で、これはどちらかというとまあ、お祈り宗教だったんですね。世界中どこでもあるような、神々に祈りを捧げて、われわれの人生を無事に幸せに送らせてくださいとか、そういうことをお祈りする宗教だった。で、それがある時期から、そうじゃなくてわれわれ自身が修行して真理を悟ろうと。つまり修行して目を開いて、つまり心の目を開いて悟りを得て、真実をつかもうっていうような流れが出てきた。で、その代表的な人がお釈迦様です。そしてお釈迦様だけじゃなくて、そういうタイプの人がインドでたくさん出てきた。
で、実際、お釈迦様は多くの弟子を解脱、悟りに向かわせた。しかしその後――まあこれは仏教の話なんで、一応仏教をテーマにいうとね――仏教っていうのは、まずお釈迦様っていうのは、ある意味反体制派だったんです。つまりその当時っていうのは、まあバラモン教っていう、つまり今のヒンドゥー教の前身みたいなものが主流を占めてて、お釈迦様っていうのは異端だった。つまり一般の世間にちょっと逆らうようなかたちで、「君たちは間違ってる」と。「わたしは真理を悟ったんだ」って言って、パーッて出ていった。当然最初は、「この人、何言ってんだ?」っていう感じだったわけだけど、だんだんだんだん、お釈迦様の教えは素晴らしいってなっていって、だんだん広まっていった。
ただ、お釈迦様が生きてるときは、実際はそこまでは広まってないんです。お釈迦様の死後しばらくしてから、インド全土を支配する王様が、仏教は素晴らしいって言いだして、で、仏教がインド全体に広まっていったんですね。
で、最初は仏教修行者っていうのは、お釈迦様の時代はね、まず雨季以外――インドっていうのは雨季があるから、雨季のときは屋根の下に入るんだけど、それ以外は森とか林を放浪してね、瞑想して、で、食事はただ托鉢に行って、家々から残り物をもらって、あとはもう森で修行するみたいな、そういうスタイルだった。しかしだんだん教団が大きくなってくると、まあ立派なお寺ができて、で、お坊さんもいっぱい増えて、で、それを支える在家の信者たちもたくさん増えた。で、それはもちろん悪いことではない。そうやって広まっていくのはいいことなわけだけど、それによって、なんていうかな、仏教のお坊さんたちがちょっとこうあぐらをかきだしたわけだね、簡単に言うと。つまり仏教のお坊さんというだけでみんなから尊敬される。それからお金とか物もいっぱいお布施される。もちろん、だからといって堕落するわけではないんだけど、内にこもるようになった。内にこもるっていうのは、救済とかを考えるんじゃなくて、僧院でね、お寺の中でいろんな研究したりとか、あるいは自分たちだけで教えを学んだりとかいうかたちになっていって、あまり民衆の期待に応える教えではなくなっていった。
で、それにちょっと内部反発する人たちが現われた。それがまあ、のちの大乗仏教っていう流れなんだね。つまり、お寺にこもって研究ばっかりしてる人たちを、君たちは自分のことしか考えてないと。そうじゃなくて、人々を救うために修行しようっていうような流れが出てきたんですね。
しかしこの大乗仏教の流れも、実際には、なんていうかな、お寺の中のお坊さんたちがやっぱり中心だったんだね。大乗仏教の時代っていうのはしばらく続くんだけども、大乗仏教っていうのは理想は素晴らしいんだけど、じゃあどうするのっていう部分がちょっと弱いんですね。理想はとても素晴らしいことを言ってる。でも現実的にその境地に達するのは一体どうしたらいいんだっていうのが、まだ弱かった。
で、それが確立される時代がやってくる。これはだから、また新しいムーブメントの時代があるんです。そのころに、ヒンドゥー教のヨーガも、新しいタイプのヨーガが出てきます。そして仏教も新しいタイプの仏教になっていきます。で、仏教の場合はそれが密教っていうかたちが中心になっていくんですが、ヒンドゥー教の場合は皆さんよく知ってるバクティヨーガ、カルマヨーガ、そしてクンダリニーヨーガ、ハタヨーガ、こういったヨーガが登場しだした。つまりわれわれがよく知ってる、アーサナしたり呼吸法したりムドラーしたりとか、こういうヨーガっていうのは、もともとはなかったんだね。それがある時期にだんだん現われてきた。あるいはわれわれがよく知ってるバクティヨーガとかカルマヨーガとかも、まあ、これはその前からあったけど、よりはっきりとしたかたちで大きな流れとして盛り上がってきた。
つまりその前のヨーガとか仏教っていうのは、ひたすら瞑想。ひたすら座って一点集中して瞑想すると。そして特に仏教の場合はかなり、なんていうかな、僧院主義になってしまって、つまり出家してお寺に入らないと救われませんよ、みたいな、まあ確固たる流れができちゃったと。で、ヒンドゥー教とかでもすごく観念的に――例えば生まれつきね、この階層に生まれた人は教えも学べないとか、すごく観念的な流れができていた。で、それを打ち破る感じで、今言ったバクティヨーガ、カルマヨーガ、クンダリニーヨーガ、ハタヨーガっていうのができてきたんだね。
で、ヒンドゥー教でいうと、ヒンドゥー教っていうのは現代もそうだけど、大きく分けると、二つとか三つに分かれます。それはヴィシュヌ派と、シヴァ派や女神派ですね。
つまりヴィシュヌ神、まあこれはクリシュナと同じだけど、ヴィシュヌ神を信奉する人々と、それからシヴァ神、またはシヴァの妃を信奉する人々。
で、ヴィシュヌ神の信奉者たちで盛り上がったのが、まあ『バガヴァッド・ギーター』とかに代表されるバクティヨーガ、そしてカルマヨーガの世界なんだね。これはここでも何度も勉強会してるし本もいろいろ出してるからそれを読んでもらったらいいけども、つまり神への完全なる帰依、まああるいは神の化身としての自分の師匠への帰依。あるいは自分の人生っていうものを神から与えられた使命と考えて、目の前のやるべきことに全力を尽くすと。こういったバクティヨーガ、カルマヨーガの思想によって、どんな人でも、つまり例えばあなたは生まれが悪いから駄目とかじゃなくて、あるいはあなたは出家してないから駄目とかじゃなくて、どんな環境にいるどんな人でもこのバクティヨーガとカルマヨーガによって救われますよっていう発想があった。
で、もう一つシヴァ派や女神派の方は、これはまさにクンダリニーヨーガ、あるいはハタヨーガなどの流れはこれに属します。つまり実際のさまざまな秘密の――例えばムドラーであるとか、あるいはエネルギーを覚醒させて体中に回す瞑想だとか、そういうのをたくさんやって、それによって、これもまた階級とか身分とか職業とかに関係なく悟れるんだっていう流れが出てきたわけだね。
だからこの流れっていうのはとても実質的な、つまり机上の空論ではない、現実的にわれわれが悟れる道として、そういう道がだんだん出てきた。で、それが仏教でも同じような方向性にいったんですね。
というよりも、その時期そのヨーガの流れと仏教の流れがちょっと混ざるような感じで、お互いに影響を与え合ったっていわれている。だからその時期っていうのは、表面上はケンカしてるんだけどね、つまりヨーガの人たちは「仏教なんてあんなの駄目だ」って言ってて、で、仏教の人たちは「ヒンドゥー教っていうのは外道だ」とか言ってるんだけど、内容的にはどっちがどっちだか分かんないぐらい混ざり合ってるんです。で、この時期にまあ仏教の方では、今回学ぶような密教行者たちがいっぱい出てきたんですね。
で、この密教行者たちの特徴っていうのは、まずそれまでの観念を打ち破って、身分とかあるいは生まれとかに全く関係がなく悟れるっていうことをみんな示したわけだね。で、彼らがやってる具体的修行法は、まあクンダリニーヨーガや、いわゆる生成と完成の瞑想法や、マハームドラーなどの瞑想法です。つまりだいたいここでやってるような修行法です。ここでいろいろ教えてるような呼吸法、ムドラー、瞑想とかにとても近い。で、それプラス、バクティヨーガ、カルマヨーガなんだね。だから結局、クンダリニーヨーガを土台とした瞑想、そしてバクティヨーガ、そしてカルマヨーガ、この三つが合わされば、そしてまあもちろんちゃんとした師に出会って、で、全力でこれを行なうならば、どんな人でも悟れる。どんな人でもっていうのは、もう一回言うけど、身分に関係ない。あるいは職業関係ない。あるいは過去にこういうことやっちゃいましたとか関係ない。もちろんちょっとは関係あるよ。ちょっとはっていうのは、過去に悪いことやってれば当然それを浄化するのに大変苦しまなきゃいけないかもしれないけど、でも正しい師のもとでこういった修行をしっかり行なえば、誰でも悟れるんだと。それを示してるのがこの『八十四人の成就者たち』ですね。
で、これは八十四人――まあ、このね、原本、原典には八十四人の成就者が登場するわけですが、実際これすごく、今日勉強しても分かると思いますが、短いです。一人ひとりの伝記が、非常に、なんていうか、簡潔に書いてあるんだね。だからすごく端折ってある。だから実際その人がどういう人だったかっていうのはちょっとよく分からない部分もあるんだけど、ただ大まかに、修行のエッセンスみたいなのが書いてある。
それからね、この中には皆さんがよく知ってる人も出てきます。例えば『入菩提行論』を書いたシャーンティデーヴァとかね。あるいはナーローパとか、まあ何人か出てくる。ただ。そういう話っていうのは『聖者の生涯』とかにも載ってるし、いくつかの本に載ってたり、あるいはわたしが話したりしたこともあるので――その辺は端折っています。つまりそういう、皆さんがよく知ってるような人の話はあえて抜いてるので、だからこの『八十四人の成就者たち』の勉強会で出てくる人は、まあ、あまり皆さんが聞いたことがない人をね、中心に出していきます。
はい、じゃあちょっと前置きはこれくらいにして、読んでいきましょうかね。
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