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解説「人々のためのドーハー」第二回(1)

2020年1月23日

解説「人々のためのドーハー」第二回

 はい。サラハは、これはまあ、密教、インド密教の、いわゆるマハームドラーといわれる系統の、祖師的な人の一人ですね。
 まあ、さっきまで『クリシュナ物語』を見ていて、で、今からサラハなわけですが、つまりクリシュナのかわいらしさとか、そういうね、愛おしさを、なんていうかな、修習するバクティヨーガの世界、それから非常に知的なマハームドラーの世界っていうのは――あるいは密教の世界ね、あるいはゾクチェンとかもそうだけど、何回か言ってるけど、これは一見、全く違う道に見えるんだけども、実際この二つっていうのは、つまりバクティヨーガとそれから密教の最高地点っていうかな、これらは実は非常に近い世界になっています。
 いつも言うように、修行の道っていうのは、ただ一つの頂上に向かう、いろんな道にすぎないんだね。で、その観点から言うと、まずバクティヨーガと、それから密教的な道っていうのは、全然違うところからスタートするような道です。もともとはね。つまり例えば富士山があったら、山梨県のある場所と、それから静岡県のある場所からね、スタートするような、全然違う道を通るわけですけども、ただどちらとも非常に強力っていうか、一気に高い地点に行くような教えなので、実際非常に、道は違うんだけども、見てる景色は非常に頂上に近いので、非常に似通った部分があるんだね。だからそれは、そういうふうに認識したらいいでしょうね。
 だから今日学ぶサラハの、非常に知的な教えと、それから、さっきまで見てたような、もうほんとに「ああ、かわいいなあ」っていうね、情緒的なっていうかな、われわれの心の純粋さを引き出すような教えっていうのは、実際には非常に近いところにあるって考えたらいいね。
 はい。で、サラハに関しては、もうひたすら何度も何度も話してるので、前提の話は今日は、時間もないのでね、あんまりしないけども。前にちょっと学んでいた『王のためのドーハー』、そして、今日学ぶ『人々のためのドーハー』、それからもう一つ、『王女のためのドーハー』っていう三つのドーハーをサラハは残しています。ここでいうドーハーっていうのは、心のままに歌う悟りの歌ですね。で、今日学ぶやつが一番長い『人々のためのドーハー』っていうやつです。で、長いっていうことはつまり、より分かりやすくなってる。分かりやすくなってるといってもまあ、読んだら分かるけどね、なかなか難解なわけですけども、ここからね、学んでいきたいと思います。で、前回まあ結構進んだので、その続きになりますね。
 はい、ただ前回からだいぶね、時間がたってるので、前回の雰囲気を感じるために、ちょっと最初からね、前回のところまで読んでみましょうかね。

 サラハの「人々のためのドーハー」

 ブラーフミンたちは真理を知ることなく
 四つのヴェーダを虚しく暗唱する。

 彼らは、水やクシャ草などの準備を整え、
 家の中に座って火を燃やし、
 無意味な儀式を執り行い、
 刺激的な麻薬を吸って、意識を混沌とさせる。

 豪華な衣装を身につけ、一人または複数の助手を従える。
 彼らは、自分たちの伝統こそ優れていると誇り、
 虚栄心の奴隷となって、人生を無駄に浪費する。
 彼らは、何が法で、何が非法であるか、理解していない。
 
 彼らは体に灰を塗り
 縮れた長い髪を頭の上に巻いて載せて
 家の中に座って、灯明を灯し、鐘を鳴らす。

 彼らは姿勢をただし、目の位置を固定し、
 人々を欺く言葉をささやく。
 そして未亡人や修道女などに
 教えとイニシエーションを与えて、報酬を受け取る。

 また、ジャイナ教の僧たちは、
 ある者は長い爪と汚い服
 またある者は裸になり、くしゃくしゃの髪で
 彼らは自分たちの「解放の教え」に束縛されている。

 素っ裸になれば解脱するというなら
 野良犬たちは解脱しているだろう。
 毛を剃ってつるつるになれば完璧だというなら
 乙女のお尻は完璧だ。

 彼らジャイナ教の僧たちにも解脱はないと、サラハは言う。
 彼らは幸福の真理を奪われ、
 ただ自分の体を苦しめる。

 仏教の僧たちは、世を放棄して
 伝統的な教えを学ぶ。
 彼らは、誰かに見られているときは集中して経典を読むが
 誰もいなくなると、集中がしおれる。

 他の者たちは、大乗の教えを学び、
 他の者たちは、曼荼羅の輪に入って瞑想し、
 また他の者たちは、四つの至福を得ることに努めている。

 しかし彼らは様々なかたちで、道から落下する。
 またある者たちは、空の本性について教えを説くが
 そこには様々な意見の相違がある。

 彼らは自己の本性を見ずに、
 ニルヴァーナをどこかに捜し求める。
 それが可能ならば、無智なる者も絶対の真理を得るだろう。

 彼らは、どのような方法で放棄をするのだろうか。
 所有物を放棄して、瞑想にとどまるのだろうか?
 何の儀式によって?
 何のマントラによって、それらを行なうのだろうか?

 どんな苦行を行なうのだろうか?
 どんな巡礼を行なうのだろうか?
 沐浴によって放棄を達成するのだろうか?

 そのような形式的な、偽りの妄説へのとらわれを捨てて、
 すべての幻影を放棄せよ!
 そこには何もないと知れ。
 
 「これを理解せよ」「これを瞑想せよ」と、
 古い伝統や論書で議論されてきた。
 目的も意味もわからず、
 人々は盲目的に、それらに従ってきた。

 そこには宝物があるかのように見える。
 世界は偽りの奴隷になっていると、サラハは言う。
 愚か者は、彼自身の真の本性を理解しない。

 瞑想することなく、世を捨てることなく
 家に住み、妻を持っていても
 感覚の喜びを楽しみ、それらを放棄しなかったとしても、
 完璧な叡智を呼び覚ますことはできると、サラハは言う。

 サラハは叫ぶ。存在の本性とは、存在でも非存在でもないと。
 もしそれが明らかに理解できるなら、何を瞑想する必要があるのか?
 もしそれが理解できないなら、瞑想しても、暗闇で手さぐりしているようなものだ。

 よって、生まれることも、生きることも、死ぬことも、同じである。
 これによって、唯一最高の至福を得る。
 サラハは、これらの深遠な秘密の言葉を語るが、
 愚かなこの世界は、それを理解できない。
 
 それが瞑想から離れて存在するなら、どのように瞑想するというのか?
 それが言葉にできないものなら、どのように議論するというのか?
 すべての世界は、物事の外側の姿の奴隷となり、
 誰も自分の真の本性を捕まえることができない。

 マントラとタントラ、精神集中と瞑想、
 それらはすべて、自己欺瞞の原因となる。
 思索の瞑想にふけることで、自己の本性の純粋さをけがしてはいけない。
 自己の本性の至福に従うことで、これらの受難を止めなさい。
 
 食べ、飲み、感覚の楽しみにふけり、
 何度も繰り返して曼荼羅を満たして、
 お前は世界を超えることができる。
 おろかな世俗者の頭の上を歩いて進め!

 ここにおいて、プラーナと心はもはやこれ以上さまようことなく
 太陽と月は現われない。
 そこに、おお、人よ、お前の思考を休息させよ。
 これが、サラハが与える教訓である。

 区別をせず、すべてはひとつであると見て、
 仏陀の五つの家族という区別も設けるな。 
 大いなる愛著によって、三界をひとつにせよ。

 ここには始めもなく、中間もなく、終わりもなく、
 輪廻もニルヴァーナもない。
 最高の至福の状態で、
 自分と他者のどちらもない。

 お前はすべてを、前も後ろも、十方すべてをそのように見よ。
 今日にも、お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!
 他の誰にも尋ねる必要はない。

 感覚の欲望は鎮まり、
 自己という概念は破壊される。
 おお、友よ、それが本性身である。
 それをお前のグルに、はっきりと尋ねるのだ。

 こうして思考は捉えられ、プラーナの動きは止まるがゆえに、
 これは最高の至福である。
 こうして人は『今・ここ』にとどまり、どこへも行くことはない。

 それが自己の経験となった今は
 それに関して過ちを犯してはいけない。
 それを実在または非実在と言ったり、一つの味の至福などと呼ぶことは、そこに制限を設けることになる。

 お前自身の思考を完全に理解せよ、おお、ヨーギンよ!
 水が水と一つになるように。

 どのような瞑想によって、解脱を得るというのか?
 なぜそのような虚偽を受け入れるのだ?
 ただお前の良きグルの言葉を信頼せよ。
 これが、わたし、サラハのアドヴァイスだ。

 はい。ここまでですね、前回はね。非常に、読んで分かるように、難解な感じがするわけですが、まあ、これは前から言ってるように、このサラハはかなり、今見ても分かるように、結構否定をするわけだね。「こういうやり方も意味ないぞ」と。「こんなのも駄目だぞ」と。で、これは、何度も言ってるけども、なんていうかな、時代の、ある狭間に、聖者がね、よくやる、カウンターパンチみたいなもんなんだね。カウンターパンチっていうのは、何度も言うけどね、われわれの、悟りとか、あるいは覚醒の道っていうのは、実際は、かたちあるものではない。かたちあるものではないけども、例えばある偉大な聖者が現われて、で、その時代に合った、そして人々に合ったね、最も素晴らしい方法論を説くわけだね。で、この方法論っていうのは、あくまでも方便にすぎないわけだけども、でもその聖者の言うとおりにやることによって、速やかに人々は覚醒に至ると。しかし、徐々に人々は、時代が下るにつれて、勘違いをしだす。あるいは、なんていうかな、表面的なところだけにとらわれて、最初のね、聖者が説いた本質が分からなくなるわけだね。でも多くの人は、その表面の教えにとらわれてるから、自分たちは正しい道を歩んでると思ってしまう。そこでこういったサラハみたいな人が現われて、ガーンとやるわけですね。「おまえたち、そんなことやっても意味ないぞ」と。ね。
 だから、これは気を付けなきゃいけないのは、一つ一つの修行とか、ここでサラハは例えば「瞑想も意味ない」とか言ってるけども、もちろん瞑想が意味ないっていうことではない。しかしここでサラハがやろうとしてるのは、何度も言うけども、非常に現実的な、直接的な導きなんだね。直接的な導きっていうのは、つまりすべてを知ってるサラハが、修行者っぽいけどもなんかちょっと変な感じになってる人の前に現われて、「おまえ、そうじゃない」と。「そんなことやっても意味ないぞ。こうなんだ、こうなんだ」っていうことを直接的に言ってる世界なんだね。じゃあどうすりゃいいのかっていう話になるけども、それを、このサラハのいろんな歌の中で、非常に、なんていうかな、微妙なかたちで言ってるんだね。微妙なかたちっていうのは、つまり微妙なかたちでないと言えない。その真実っていうのはね。だからいろんな方向からサラハがいろんな、あるときは皮肉っぽく、あるときはちょっと例えを使って、いろんなことを言って、これを聞く者たちにね、自分が言わんとしている唯一の真実を分からせようとしてるわけですね。
 で、もう一つは、グル、つまり師匠の指示に従えと。それがおまえにとっての――つまり伝統であるとか、あるいは形式的なものに従うよりも、自分の師匠にそれを目覚めさせてもらえと。それがまあ、一貫してサラハが言ってるアドバイスですね。

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