解説「人々のためのドーハー」第一回(9)
【本文】
よって、生まれることも、生きることも、死ぬことも、同じである。
これによって、唯一最高の至福を得る。
サラハは、これらの深遠な秘密の言葉を語るが、
愚かなこの世界は、それを理解できない。
はい。これもね、とても深遠な部分だね。これはだから、何度も言うけど、このサラハの『人々のためのドーハー』っていうのは最も簡単な教えなんだけど(笑)、それでも相当難しいね。かえってこっちの方が難しく思える。なぜかというと、『王のためのドーハー』っていうのはあまりにも高度過ぎて、何が難しいのかさえ分かってなかったと思うんだけど(笑)、このサラハの『人々のためのドーハー』は、多分皆さんもちょっとは理解できるっていうか、ちょっと「あれ?」ってこう、心が「こうかな?」っていうのが多分あるだろうから、だからちょっと難しさが逆により分かるのかもしれないね。
はい、この一節もとても素晴らしい一節です。
生まれることも、生きることも、死ぬことも、同じである。
これによって、唯一最高の至福を得る。
これも一つの、悟りというか心の境地です。まあ、これはね、そうですね、皆さんに当てはめると、これを日々考えてみてください。「生まれることも、生きることも、死ぬことも、同じである」と。生も死もすべて同じだと。われわれはすごく死っていうのを、例えば特別なものと考え、で、生きてるっていうことも特別なことと考える。じゃなくて、生きることも死ぬことも同じなんだと。
これは人によっては、これによって何か気付きが生まれるかもしれない。生きることも死ぬことも同じだと。それによって最高の至福を得る。
ほんとに、生きることも死ぬことも同じであるということを、心がちょっと納得しだすと、ほんとに至福になります。この種の至福っていうのは、皆さんもこれから経験するかもしれない。この種の至福ってどういう意味かっていうと、神に心が開いた至福ではなくて、あるいはクンダリニーが上がったときの至福でもなくて、なんかちょっとこの世の一歩深いところに気付いちゃったときの至福ってあるんだね。「あ!」ってちょっと心が気付いたときに、なんか至福になるんです。うん。で、これも一つのヒントですね、そのための。生まれることも、生きることも、死ぬことも、同じであると。
これは崇高な言葉なんだけど、もうちょっと現実に下ろして言うとね、われわれは――まあ、これは『バガヴァッド・ギーター』の教えにも関わってくるんだけど――日々小さなことにいろいろとらわれ過ぎなんです。こうなったらどうしよう、ああなったどうしよう、こうなったらいいな、でもこうなったらわたしはとても嫌だと。これに――もう生まれる、死ぬっていう大きな問題どころか、日々のほんとに小さな小さなね、こうでありたい、ああでありたくない――これでもう、ウジャウジャウジャウジャなってしまってるわけだね。だから小さな問題でいうと、それもすべて同じなんだよと。まあ、つまり『バガヴァッド・ギーター』でいわれるように、成功も失敗も同じですよと。あるいはそこで得ても得なくても同じですよと。で、それを究極的に言うと、生きてても死んでても同じですよと。
これで面白い話があって、ある聖者が、「生も死も一緒である」と。で、それに対して意地悪な質問者がね、「じゃあ、なんで死なないんですか?」って言ったら、「同じだからだ」っていう(笑)。「生きてても同じだから生きてるんだ」って言った人がいて。でもそれはまあ、冗談じゃなくて、ほんとにそういう境地になってくるんだね。生も死も全く変わらないっていうか。だからそれはまあ、もう一回言うけど、それを普段から皆さんがちょっと考えてみることによって、ちょっとずつ心が気付くかもしれない。
だからこういう言葉っていうのはね、すべてヒントなんだね。気付きの言葉っていうか。つまり論理的に考える必要はない。論理的というよりは、この言葉を例えば繰り返して、なんていうかな、心をそこに没入させた方がいいかもしれない。その言葉の中にね。生も死も同じだと。生まれることも死ぬことも同じだと。で、もうちょっと補足すると、成功も失敗も同じだと。得ても得なくても同じだと。もちろん、だからといって怠惰になっちゃ駄目だよ。頑張っていろんなことを日々やるんだけど、その中でそのような、ちょっと達観的な意識を持たなきゃいけない。
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