yoga school kailas

解説「人々のためのドーハー」第一回(6)

【本文】

 他の者たちは、大乗の教えを学び、
 他の者たちは、マンダラの輪に入って瞑想し、
 また他の者たちは、四つの至福を得ることに努めている。

 しかし彼らは様々なかたちで、道から落下する。
 またある者たちは、空の本性について教えを説くが
 そこには様々な意見の相違がある。

 彼らは自己の本性を見ずに、
 ニルヴァーナをどこかに捜し求める。
 それが可能ならば、無智なる者も絶対の真理を得るだろう。

 はい、これもまあ、あんまり考えなくていいけど、つまり大乗の教え、あるいはマンダラの輪とか四つの至福とか、これは密教の教えですね。その前に出てる「伝統的な教え」っていうのは、これは原始仏教ね。つまり仏教っていうのは大まかに言うと、原始仏教――まあ原始仏教っていうか現代では上座部仏教っていうのが伝えられていますが、そういう初期仏教の流れを汲む仏教、大乗仏教、そして密教ってあるわけだけど。それはそれでいいんですが、みんな、いろんなかたちで道から落下する危険性があると。
 で、空の本性とかいろんな教えを――仏教っていうのは、まあヒンドゥー教もそうだけど、特に仏教っていうのは、さっきも言ったように、論争的性格があるんで、同じ仏教という枠組みの中でいろんな派があって、もういろんな論争を繰り返してるわけだね。ほんとにもう、わたしも昔そういうのを読んだことがあったけど、わたしはやっぱりね、そういう――わたしもそういうちょっと知的なものを好むところもあったんだけど、やっぱりそんなにそっちには行かなかった。途中、なんかばかばかしくなってくるんだね。すごいなんか重箱の隅をつつくような論議を数百年かけてやってるわけですよ、ああいう人たちっていうのはね。最初はだからわたしも、まさにサラハが批判するところなんだけど、なんていうかな、権威があるものにやっぱり惹かれて、そういうのを学びだす。で、なんか頭の片隅で、「え、これ、なんか意味ないんじゃない?」っていう気がするんだけど、「いや、これが伝統的な重要な教えなのである」って感じでまた読みだすんだけども、やっぱり追究していくとむなしくなってくるっていうか。
 だから逆に言うと、わたしの場合は当然、仏教の勉強をしてただけじゃなくて、ヨーガをやったり、あるいはバクティヨーガの神への帰依を培ったり、いろんな方向からやってたから、例えばバクティで神に心を開いたときの至福感であるとか、あるいはクンダリニーがしっかり上がったときの心のほんとに覚醒した状態であるとか、そういうのを思い出すとね、「空がどうだ、こうだ」ってこう本を読みながらやってるのが、非常になんか、「これ、真理なのかな?」っていう、ちょっと疑問が出てくるわけだね。もちろんそれは方法論として、論理的に追究するっていう道はあってもいいんだけども、でもそれをあまりにも、他宗派との戦いであるとか、あるいは自分たちを正しいと権威付けるための論理的構築とかにちょっと走り過ぎてたきらいがあるんじゃないかなってわたしは思う。だからわたしはあまり、普段はいろんなものを批判はしないから、あまり普段は言わないけども、普通に今現代で、仏教――まあ、チベット仏教もそうだし、いろんな仏教とかで非常に権威がある教えであるとか論書とかにも、多くの、やっぱり意味のない部分とか、たくさんあると思います。あるいは現代には必要ない部分とかね。
 はい。そして、

 彼らは自己の本性を見ずに、
 ニルヴァーナをどこかに捜し求める。
 それが可能ならば、無智なる者も絶対の真理を得るだろう。

 はい、まあ、この辺から徐々にちょっと本題に入ってきてます。つまり、いろんな経典であるとか、権威であるとか、論理であるとか、いろいろなところにニルヴァーナを探し求めてるわけだね。これはミラレーパの言葉で、「仏陀など探し回って見つかるものじゃない」と。「自分の心を探せ」っていう言葉がある。つまり、心の本性っていうのは当然自分の心の中を追究しなきゃいけないわけだけど、じゃなくて、もう一回言うと、いろんな権威ある経典であるとか、あるいは考え方とか儀式とか、そういうのにとらわれて、つまり本末転倒になってるというか、目的を見失ってる修行者がいっぱいいるということですね。で、「それが可能ならば、無智なる者も絶対の真理を得るだろう」と。はい、まあ、つまり逆に言うと、絶対の真理や、ニルヴァーナというのは、自分の心の本性にしかないんですよと。

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