解説「人々のためのドーハー」第一回(5)
【本文】
仏教の僧たちは、世を放棄して
伝統的な教えを学ぶ。
彼らは、誰かに見られているときは集中して経典を読むが
誰もいなくなると、集中がしおれる。
はい、今度は仏教ね。サラハはもちろん仏教徒なんだけど、今度はその仏教の内部批判みたいな感じだね。で、この一節っていうのは、わたしは個人的にはとても、仏教のやっぱりカルマっていうか、仏教徒のタイプを表わしてると思うね。確かに仏教徒ってこういう感じがある。仏教徒ってやっぱりね、全体的に見ると――あくまでイメージですよ――知的な人が多い、やっぱり。仏教を学ぶ人ってね。でもちょっと、知的プライドが高い人がやっぱり多いと思うね。だから、人が見てると(笑)、素晴らしい集中で経典を読んでるんだけども、誰もいなくなるとちょっと気が抜けてしまう(笑)。知的プライドが高いタイプが多いんだと思うね。だからこれは、ここにもこういうふうに書かれてるっていうのは、おそらく昔からそうだったんでしょうね。仏教徒の持つカルマっていうかな。
皆さんも教えを学ぶと分かると思うけど、やっぱり仏教ってね、ずば抜けて知的です。経典とか見てもね。理論がものすごく練り込まれてるっていうか。お釈迦様の教えも非常に知的だし。だから仏教に集まる人自体が、カルマ的にも知的なんだろうし、「自分たちはこんな知的な教えを学んでるんだ」っていう、やっぱりプライドがある人が多いんだろうね。
ネットとか見てても、やっぱりそういうのが見える。例えば修行や教えについて論じてるのを見るとね、自称・仏教をよく知っているっていう人とかが登場すると、もうなんか完全に、相手を最初から小ばかにしてる人が多い。「一切は空ですよ?」って(笑)。
(一同笑)
「だって縁起ですから」みたいな感じで(笑)、自分たちが理解してると思い込んでる、知的な、論理的なものに、あるいは単なる難しい言葉とかに、非常にプライドを持ってるっていうか。それで、「おれたちのこの、優秀で知的なところを見なさい」みたいな。やっぱりそれが、あるタイプの仏教徒たちの、けがれといえばけがれなのかなっていう感じがする。だからそれをちょっと突いてるわけですね。
もちろん、仏教徒全員がそうだっていうわけじゃないよ。もちろんカイラスでも仏教の教えっていっぱい出てくるし。――まあ、ここにはそういうタイプはいないかもしれないけど、とにかくそういうところには落ち込まないように注意したらいいね。
あとこの、誰かに見られているときは頑張るけど、誰もいなくなると、集中がしおれるっていうのも、ちょっと気を付けた方がいいね。逆も駄目ですよ。阿修羅的な人は逆になる人もいる。ひねくれた人ね。みんながいるときはなんかちょっとふざけた感じで、なんか気が入んないんだけど、みんながいないときに頑張るみたいなタイプもいるから。あんまりそれも意味がないからね(笑)。誰が見てようが見てまいが――だからバクティヨーガの考えが一番いい。つまり、「わたしには神しかいません」と。あるいは「仏陀しかいません」と。で、その神や仏陀っていうのはいつも見てくださってると。神や仏陀にいいところを見せるのはいいことですよ。つまり自分はほんとはまだ駄目なんだけど、でも神や仏陀が見てるから、もう二十四時間頑張るんだと。それはいい考えです。だからそれがいいね。そうじゃなくて、周りの人々を気にしてもしょうがない。