解説「ラーマクリシュナの福音」第一回(1)
2010年2月27日
解説「ラーマクリシュナの福音」第一回
【本文】
1882年2月26日(日)
Mが初めてシュリー・ラーマクリシュナにお目にかかったのはの日曜日、師の誕生日の数日後だった。シュリーラーマクリシュナはドッキネッショルにある母カーリーの寺院に住んでおられた。
Mは日曜日は暇なので、友人のシドゥとともに、バラナゴルにあるいくつかの庭園を訪れた。プラサンナ・バネルジの庭園を歩いているとき、シドゥが言った。
「ガンガーの岸に一人のパラマハンサが住んでいる美しいところがあるのだよ。君、行きたいか?」
Mは同意し、二人はすぐにドッキネッショル寺院に向かった。
彼らは日暮れに正門につき、まっすぐにシュリー・ラーマクリシュナの部屋に行った。そしてそこに、彼が東に向き、木の寝椅子に座っておられるの見た。顔に微笑をたたえて、彼は神のことを話しておいでになった。部屋は人でいっぱい、みなが床に座り、深い沈黙のうちに彼の言葉に聞き惚れていた。
Mは言葉を忘れてそこに立ち、そして眺めた。まるで全ての聖地が一緒になったところに立ったかのよう、そしてまるでシュカデーヴァその人が神の言葉を語っているか、シュリー・チャイタニヤがプリでラーマーナンダやスワループを初めとする信者たちとともに、主の御名と栄光を歌っているかのようだった。
シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃった。
「ハリかラーマの御名を一度聞いたら涙が流れ、髪が逆立つようになったら、もう自分はサンディヤーのようなおつとめはしないでもよいと思ってよろしい。そうなったときには、ラーマかハリの御名を唱えさえすれば、またはただオームを唱えるだけでも十分であろう。」
続いて、彼はおっしゃった。
「サンディヤーはガーヤトリーの中に、そしてガーヤトリーはオームの中に飲み込まれてしまうのだ。」
はい。これは物語の冒頭ですが、まあ、この『ラーマクリシュナの福音』っていう物語自体が、このMという人が――このMっていうのはマヘンドラナート・グプタという、ある学校の校長先生だったわけですが、この人が足しげくラーマクリシュナのもとに通い、まあ非常に頭のいい人だったんで、その日の出来事をすべて覚えておいて、家に帰ってから書き留めたその内容をもとにまとめたものですね。この冒頭はそのM自身が初めてラーマクリシュナのもとに行ったときの描写ですね。
はい、ラーマクリシュナのところに行ってみると、まずラーマクリシュナが信者たちに話しているのが聞こえましたと。で、その話が、まず「ハリかラーマの御名を一度聞いたら、涙が流れ、髪が逆立つようになったら、もう自分はサンディヤーのようなおつとめをしないでもよろしい」と。そしてそのあとに、「サンディヤーはガーヤトリーの中に、ガーヤトリーはオームの中に飲み込まれてしまうのだ」ってありますが、あの、まず言葉の説明をすると、ハリっていうのはこれはヴィシュヌ神のことですが、まああるいはクリシュナと言ってもいいんですが、つまり絶対者ね。至高者のことを指しています。で、ラーマっていうのは、『ラーマーヤナ』の主人公ですけども、これは同じヴィシュヌがね、ラーマとして地球に降りてきたときの名前ですね。ですから至高者の名前といっていいんだけども、至高者の名前を口に出すだけで、自然にね、涙が流れ髪が逆立つような境地にまでいったとしたら、もうサンディヤーをしないでいいんですよと。
で、このサンディヤーって何かっていうと、これは伝統的なね、ヒンドゥー教のお坊さんや修行者たちが必ずやる儀式で、夜明けと、それから夕方、まあつまり日が昇るとき、そして日が沈むとき、この二つの時刻っていうのは、昼と夜が、つまり光と闇が合一するときといわれて、最も神聖なときといわれるんですね。だから伝統的なヒンドゥー教の人たちは、この日の出のときと日の入りのときに、まあ非常に形式的なね、聖典に定められたやり方に従っていろんな儀式をやるわけですね。それは流派によっていろいろ違ったりするわけだけど、例えば最大の聖地といわれるヴァーラーナシーとかに行くと、だいたい日の出とか日の入りごろになると、まあいろんな宗派のヒンドゥー教の人が河に集まってきて、いろんな儀式をやるんだね。それをサンディヤーと言います。
で、「サンディヤーがガーヤトリーの中に飲み込まれる」っていうのは何を意味しているのかっていうと、最初の時期というのは、本当にもう定められたいろんな儀式をやんなきゃいけませんよと。しかし本当に心が純粋化されてきて神に近づいてきたら、もういろいろな細かい儀式は必要なくなりますと。そうじゃなくて、ガーヤトリーマントラを唱えるだけで十分になるんだということですね。さらにそれが進んだときには、ガーヤトリーさえもいらないと。ただオームという単純なマントラをね、一番基本的なマントラを唱えるだけでもいいんですよっていう言葉ですね、これはね。
まあつまりこれが何を言いたいのかっていうと、つまりこれはバクティヨーガの教えなので、バクティヨーガにおいて最も重要なのは、非常に純粋に誠実な心を神に向けると。で、その表われとして、本当に神の御名を聞いただけで涙が流れる、あるいは髪が逆立つと。こういう状況がもしいつも起こるようになったならば、そのほかのね、形式的な修行はいらないんだと。つまり、いつも言うように、修行とか、あと教えとか戒律とかっていうのはすべて方便であってね。つまりある段階を生み出すための方便であって、いつまでもそれにこだわらなくてもいい。まあただもちろん逆に、その境地が現われなければそれは当然しっかりと、定められたことをしっかりやった方がいいわけだけども、しかしそのように、神へのね、愛、誠実さ、あるいは純粋な信仰というのが高まってきたならば、どんどんその儀式的なものっていうのは脱落していくんですよというのがここの教えですね。