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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(9)

 口頭伝授の教えを実践しないなら、隠遁生活は、ただの自己監禁である。

 これは例えば隠遁してね、瞑想するということを、かたち上それをしてたとしても、実際に偉大な師と出会い、しっかりとその伝授を受け、それを実際に修行してなかったら、ただこもってりゃあいいってもんじゃないと。

 ブッダの教えを無視するなら、農場労働は、ただの自己懲罰である。

 これはちょっと意味が取りにくいかもしれないけど、まあカルマヨーガね。つまりわれわれが仏陀の教え、あるいはもちろんバガヴァーンの教えでもいいけども、真理っていうものを学び、それにより、例えばその人が修行者じゃなかったとしても、例えば農家の人だったとしても、あるいは普通の商人だったとしても、すべてを――カルマヨーガ的に言うと、すべては神の愛と見て、神からの使命と見てそれに没頭するなら、その一瞬一瞬が悟りへの道につながる。しかしそのような理解がなく、ただ煩悩の中でいろんな活動をしていたとしても、それはまあ、ただの自己懲罰に過ぎないと。
 これはさ、分かるよね。例えばさっきも言ったように、修行やってるといろんな苦しいことがある。そこで常にブッダを思い、神を思い、あるいはカルマの法則を思い、乗り越えていく。そうするとそれはその人にとっては、さっきも言ったように、そのような苦難が大きければ大きいほど、そのあとの悟りや幸福も大きい。でも、苦しめばいいっていうもんじゃないでしょ。つまり苦しみがやってきました。そのたびに怒りが増しますと。そのたびに人々への悪い思いが増すと。こんな苦しみはもちろん――ただの、なんていうかな、何のメリットもない、ただの苦しみなんだね。つまり逆の言い方をすると、われわれの人生に真理という一つのエッセンスがポンッと今注がれた、これが大変な幸福なことなんです。われわれにとって。
 われわれはカルマがあるから、例えばわれわれが修行に出会おうと出会うまいと、一定の苦しみは当然やってくるわけだね。つまり例えば、ね、M君がいて、会社の上司がM君をバカにすると。これはM君が修行してようとしてまいと、もともと決まってたことなんです。二〇〇九年の春に会社の上司にバカにされますとね(笑)。例えばだけどね(笑)。それは決まってたとしてね。しかしもしM君が真理というものと出会わず、逆に悪い煩悩を増した状態でこの二〇〇九年の春を迎えたならば、そこでバカにされたときに何が起こるか。当然相手を恨む、あるいは相手に対して仕返しをしたいと思う。つまりこのバカにされたっていう行為がよりM君のけがれを増大させることになるんだね。でも間一髪その前に真理に出会ってました。同じバカにされたという行為が、「あ、カルマ落としてくれてありがとうございます」と。そのようなかたちでカルマを落とすっていう行為にもなるし、あるいは衆生への愛とかブッダへの愛を強めるためのきっかけにもなるんだね。そのやられたことは同じなんだけど、つまり真理というエッセンスが一つ入ってるかどうかによって全く別にものになる。
 だからそれは当然皆さんはね、真理に出会い、学べる状態にあるわけだから、そういう目で自分の人生をやっぱり見なきゃいけない。
 今生のチャンスっていうのは、いつも言うように、逃さないようにしなきゃいけないんだね。わたし、いつも思うけど、だって例えばさ、今、皆さん死んだとするよ。で、来世も真理に巡り会えるかもしれない。でも来世の何歳で巡り会えるか分かんないよ。それまでは迷妄の日々が続くわけだから(笑)。真理って何なのかよく分かんない(笑)。で、誰かがやってきたら怒ると。ね。なんかあったら執着すると。もうそういう日々がまた続くんですよ。なんかよく分かんないと。動物なんかに生まれたら悲惨だよ、全く分かんないと(笑)。全く分からずに怒りと執着の日々を過ごすんですよ。
 じゃなくて今、いつまで続くか分からないが、とにかく今、理性によって真理を理解できていると。悟ってはいないけども、一応理性によって理解できている。このチャンスっていうのを最大限に活かさなきゃいけない。
 はい。次もとても大事なところだね。

 戒律を守らない者にとって、祈りは、ただの希望的観測である。

 宗教とか精神世界に足を踏み入れた人は、「祈り」っていうのをよく言うよね。「祈りましょう」と。「祈りの力は素晴らしいんです」と。これはある意味真実です。祈りの力っていうのは素晴らしい。祈りの力っていうのは確かにある。しかし、戒律を守らず、つまり普段悪いことをやってて、いろんな努力もしてない者が都合よく祈ったって、それはただの希望的観測ですよと。つまりほんとに例えば自分のために、あるいは人のために何かを祈りたいんだったら、当然しっかり戒律を守り、つまり悪をなさず、あるいは正しい生き方をして、その上で祈らなきゃいけないんだね。そうじゃなくて、普段人を憎み、あるいは煩悩的な生活を送り、で、都合よく祈ると。そんな都合いいもんじゃありませんよと。

 自らの説くことを実践しない者にとって、美辞麗句は、ただの不誠実な虚言である。

 これもさっきのと同じだけどね。美辞麗句、つまり真理にのっとった言葉や、人に優しい言葉を言うと。しかし自分はそれを実践してないと。それはまあ、ただの不誠実な虚言だと。そうならないように、これも自分を戒めなきゃいけない。

 悪行を避けるなら、悪業はおのずから減少し、善行をなすなら、功徳は増大する。

 まあ、これはこのままだね。

 隠遁し、一人瞑想せよ。しゃべりすぎても利益はない。私の歌に従い、ダルマを実践しなさい!

 つまりここの話でもそうだし、ミラレーパの教えの全般について言えるわけだけど、結局ミラレーパがひたすら言ってるのは「実践しろ」っていうことです。「とにかく実践しろ」と。「やれ」と(笑)。「いいからやれ」っていう感じだね(笑)。「教えを実践しなさい」と。それをひたすら言ってるんだね。

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