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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(11)

◎二つの真理

 悪魔たちは嘲笑しました。
「人真似が大変うまいじゃないか。まるでダルマを完全に悟った師のような言い草だな。しかしダルマの実践によって、どんな確信を得たというんだ?」

 ミラレーパは、この「完璧な確信の歌」によって答えました。

 完全なるマルパに礼拝いたします。

 わたしは、至高の意味の真理を知るヨーギーである。
 まず私は、「生まれない源」において確信を得る。
 「終わらない道」において、徐々に力を完成する。
 今、大いなる哀れみから流れ出る
 意味ある象徴と言葉によって
 「ダルマの真髄」という絶対的な領域から
 この歌を歌う。

 罪深いカルマが、濃い無明と深い迷妄を作り出し、
 お前たちは、至高の意味の真理の意味が理解できない。
 よってこの、隠された限定的真理を聞きなさい。

 けがれのない、古のスートラの中で
 過去のすべてのブッダ方は、カルマという永遠の真理によって、
 すべての衆生は自分の親族であるということを、
 繰り返し説いてきた。
 これは、決してたがうことのない、永遠の真理である。
 この慈悲の教えをよく聞きなさい。

 わたし、修行によって成熟したヨーギーは
 外的障害は、単なる幻の演出、幻影の世界、
 生まれない心の、魔法の業であることを知っている。

 心の内側を見ることによって、
 実体のない、本来空である、
 心の本質を知ることができる。
 一人瞑想することによって、
 系統のグルたちの祝福と、
 偉大なるナーローパの教えを得ることができる。
 ブッダの内なる真理こそが、瞑想の対象である。

 わがグルの慈愛に満ちた示唆により
 タントラの深遠な密義が理解できる。
 生成と完成のヨーガの修行によって
 生命力が生じ、
 小宇宙が存在する深い意味が理解できる。
 このように、外的世界の中で、
 私は幻影の障害を恐れない。

 宇宙全体ほども大きい、無数のヨーギーたちの
 聖なる、偉大なる系統に、私は属している。

 自己の心のうちに、心の原初の状態を瞑想するとき
 「わたし」という非現実的な考えは、
 ダルマダートゥの領域の中にとけていく。
 そこでは、苦しめる者も、苦しめられる者も見られない。
 スートラを徹底的に研究しても、
 これ以上の教えはない。

 はい、これはまず一番最初のところっていうのは――ここで「至高の意味の真理」、そして「隠された限定的真理」って出てきますが、これは仏教語でいうと、「勝義諦」と「世俗諦」ってやつなんですね。つまり真理っていうのはこの二つがありますよと。まず至高の意味の真理っていうのは、これはほんとの答えなんだね。で、このほんとの答えっていうのは、もう言葉を超えた、相対世界を超えた答えなので、表わせられないんです。悟るしかないっていう世界なんだね。じゃなくて、隠された限定的真理って言ってるのは、これはわれわれが知ってるほとんどの教えがこれです。隠された限定的真理。つまりカルマの法則もそうだし、すべてそうなんだけど、つまり、ほんとの究極の真理っていうのは悟らない限り分からない。でもそれを言ってちゃ何もできないじゃないですか。「お釈迦様、真理を教えてください。」「悟んないと分かんないよ」って言ってたら、何にも始まんない(笑)。「え、じゃあどうすればいいんですか?」「悟れ」と(笑)。「どうやったらいいんですか?」と。で、そこで出てくるのが「便宜的真理」なんだね。
 つまりこれは、全く頭がまだ発達してない幼児に対して、一応便宜上のことを言って正しく導いてるようなもんです。つまり幼児に難しい政治の話をしても分からない。社会のルールの話しても分かんない。だから一応、まあ分かる範囲でのことを言うんだね。でもそれは真実ではない。例えばいろいろあるじゃないですか。例え話というか――ちょっとあまり思いつかないけど(笑)、いろんな例え、例えば「アンパンマンが来るから頑張ろうね」とか(笑)、よく分かんないけどいろいろあるよね(笑)。その場限りの、なんていうか、「うん! 分かった!」って言ってこう(笑)、頑張ってやるとかね、あるよね。でもそれは便宜上のことじゃないですか、ほんとにアンパンマンが来るわけじゃない。しかしそれによってやるべきことがそこでなされる。で、それによって利益がある。あるいは最終的にはそれによって悟りを得る。で、悟ったあとに、「なんだ、あれ全部方便だったんだな」って分かるわけだけど。
 つまり全部の教えはぶっちゃけて言うとそうなんです。いつも言うように、われわれは麻薬患者みたいなもので、今われわれがいる、このわれわれが見てるこの世界も――われわれは今自分を正気だと思ってるけど、完全に今われわれは麻薬中毒なんです。変な世界見ちゃってるんです。で、その世界に対して麻薬から覚めてるブッダが何を言っても全然聞こえないんです。「何言ってんだ、あいつは?」って感じなんだね。だからわれわれに分かる言葉で言うんです。例えばM君が麻薬患者だとして――麻薬って言ってもいろいろあるだろうけど(笑)、変な幻影を見たとして、「ああ! 赤い虫がいっぱいいる!」とか言ったとしてね。で、そこで、「赤い虫なんかいないでしょ」って言っても分かんないから、「ああ、いるね、赤い虫だね」と。「赤い虫はこう言ってるよ」って言ってこうやってだんだん(笑)、M君を目覚めせる方向に持ってくんだね。「ほら、ここで今薬飲んじゃったら、あの赤い虫がもう来てくれないかもよ」とかね(笑)、いろいろこうなだめすかして、なんていうかな、目覚める方向に持っていく。つまり薬の幻影から脱却させる方に持っていく。脱却したあとに、「あ、なんだ、全部幻影だった」と。「わたしも幻影にはまってたし、ブッダのあの言葉も上手く幻影を利用した言葉に過ぎなかった。ほんとの答えはこれだったんですね」っていうのが分かるわけだね。
 だからそういう意味ですべての、まあ文字に表わされた教えは、便宜的な教えなんだね。もちろん究極の教えも文字に表わされています。しかし究極の教えが文字に表わされると、それはわけが分かんなくなります。例えばここに最初に書かれてるようなのもそうだね。「生まれない源」とか、あるいは「終わらない道」とか、こういう言葉で表わすしかないんだね。つまり真実の境地というのは、生まれることも終わることもないと。「それどういうこと?」と考えても、答えに到達しません(笑)。つまり考えて分かる世界じゃないんだね。だからそれは悟るしかない。しかしその究極の真理っていうのは、ある程度高い境地に達した人にとっては、一言二言の真理で――サインで、ヒントで理解できる。しかしそうじゃないほとんどの人にとっては、そんな究極の言葉なんて駄目なんだね。
 例えばその一番いい例が、いつも言うけど、『般若経』です。『般若経』、『般若心経』もそうだけど。『般若経』っていっぱいあるわけだけど、『般若経』っていうのは、空の真理をストレートに言ってる経典なんだね。でもあれは決して分かった気になっちゃいけない。今本屋に行くと『般若心経』の解説書がいっぱい出てるけど(笑)、『般若心経の秘密』とかいっぱいあるけども、あんなの読んじゃいけないよ。全部間違ってるから(笑)。つまりそれは悟らないと分からない世界なんだね。悟らないと分からないことを言っちゃったっていうのが『般若経』なんです(笑)。「え、何言っちゃってんの?」っていう世界なんだね。それは多くの勘違いを生む危険性がある。でもそれは、ある程度もうほとんど悟りに近い人が見たら分かる。「あ! そうか」と。「それね」って感じで分かるんだね。でもそれは、「あ、あなた分かったんですか? じゃあちょっと説明してください」って言われても説明できないんだね。それが究極の真理ですね。
 そうじゃなくて実質的に、それは究極の答えではないんだが、実質的にそれを聞くならば悟りに向かう利益のある言葉、これがこの便宜的真理なんだね。「隠された」って言ってるのはつまりそれは、真実を隠してるからです。ほんとのことは言ってないんです、実は。ほんとのことは言ってないんだけど、何度も言うけど、さっきの子供の例えみたいに、それはほんとじゃないんだけど、結果的にほんとに導かれます。それがほとんどの教えなんだね。はい。

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