解説「シクシャーサムッチャヤ」第一回(2)

「かつて寂静の心がなかったが故に、幾度も地獄に落ちてきた。」
――はい、これは、もちろん将来的にね、れわれが修行して――仏教では宿明通というわけですが――自分の前世とかを思い出せたら分かるかもしれない。「ああ、わたしは本当に何度も地獄に落ちてきたんだ」と。「思い出した」と。もしそれを皆さんが思い出したら、もう懸命に修行すると思います。つまり、「もう二度とあれはごめんだ」と(笑)。ね。仏典に書かれる地獄ってやっぱり悲惨だからね。もう本当に、体中を縛られて切り刻まれるとか、生きたまま焼かれるとか。で、地獄の住人ってすぐ復活するんだね(笑)。体がバーッとバラバラに切り刻まれても、また体がバッと復活して、また同じ苦しみを味わうと。こういう描写が、仏典とかにはたくさん書かれている。もしわたしたちが宿明通を身につけ、それを克明に思い出したら、「あっ、そうだった」と。「忘れてた」と。「わたしは本当に何億年、あるいは数字では表せないぐらいの長い間、あの苦しみを味わってきた」と。「もう思い出したくもない」と。「もう二度とあんな世界には絶対に行きたくない」と、そう思えるはずなんだね。そのために自分の心を浄化する――つまりこれはいつも言うように、われわれが地獄に落ちてきたのは誰のせいでもない、自分の心のせいなんだね。もっといえば自分の心のけがれのせいであると。よって、この心を地獄にもう落ちないように早く浄化しなきゃいけない――っていうふうに強く思うはずなんだけど、われわれはまだそのような鮮明な宿明通を持っていない。よってまず第一段階では、われわれが縁があったヨーガとか仏教のこの真理といわれる教えに対して、どれだけ信を持てるかが、まあ、われわれの最初の課題になってくるわけだね。
つまりわれわれは、まだそこまでの力はない。力はないけども、例えばお釈迦様を信じるならば、お釈迦様が言ってらしゃることは、おそらく本当なんだろうなと。お釈迦様はわれわれよりも前に激しい修行をされて、偉大な、例えば宿明通を身につけたと。で、過去世や未来世のことを知り、この輪廻の仕組みを悟った上でね、「ほとんど地獄だよ」と言ってらっしゃると(笑)。ね。だからそれをまずは信じてみようと。で、信じるならば、まさに今言ったように、われわれは今無智なるがゆえに忘れちゃってるけど、ほとんど地獄だったと。さあ、今生やっと、このね、自由な人間としての生を得たチャンスをものにしなければ、われわれは本当にまたあそこに引き戻されてしまうぞ、っていう強い思いを自分で持ってね、自分を鼓舞するべきなんですね。
「ゆえに教えを学ぶことを決意し、偉大なるダルマに親しむ。ダルマを学ぶことによって、もろもろの罪悪を遠離(おんり)し、かつて作った罪悪を懺悔する。これによって未だかつて得ることのなかった喜びを得、その菩薩の素晴らしい至福はどんどん増大して減少することなく、最終的にブッダの最高の至福を得るべし。」
これは、われわれが歩んでいかなきゃいけない道ですね。
つまりもう一回言うと、お釈迦様の教えによると、われわれは本当にひたすら地獄に落ちてきたと。で、今この与えられたわずかなチャンス、これを生かすためには、まず徹底的にね、偉大な教えを学ぶぞと決意し、で、実際にしっかり学ぶと。そして学ぶことによって、まあ少なくともわれわれが今覚えてるね、今生のこと、過去を振り返ると、教えに照ら合わせると、そのときはそんなに思ってなかったかもしれないけども、教えに照らし合わせると、悪いことをわれわれはいっぱい行なってきたと。で、それをしっかり懺悔するわけですね。教えを学び、その教えに基づいて、しっかり懺悔をすると。
はい。そしてもろもろの悪――つまり過去の悪は懺悔し、これからは決して悪しきことをやらないぞと。ここでいう「悪しきこと」っていうのは、もちろんまさに、なんていうかな、まあ十戒、十悪とかね――に触れるような本当の悪いこと、例えば人を傷つけるとか、物を盗むとか、愛のないセックスをするとか、一般的な戒律に触れるような悪いことはもちろんやめるとして、それだけじゃなくて考え方とかも含めてね、悪――つまりそれは良くないよ、それは心のけがれにつながるよっていうことをすべて、これからやめていく努力をするわけだね。そして過去にやってしまったものに関してはしっかり懺悔すると。
もちろん、教えがあって「あ、なるほど、こういうふうに考えなきゃいけないのか」「あ、なるほど、こういうふうに生きなきゃいけないのか」っていうのが分かったとしても、すぐにやめられるわけではない。だからそれがわれわれの修行になるわけですね。
結局修行って何かといったら、まず教えっていう規範が与えられて、その教えどおりにいかに生きるか――これが修行だといってもいい。でももちろん、いきなりそうはなれないんで――まあ別の観点から言うとね――いきなりそうはなれないから、例えば教学はもちろんとして、ムドラーもそうだし、他の身体行法も必要だし、あるいはさまざまな呼吸法も必要だし、あるいは礼拝とかも含めてね、さまざまな修行が必要になってくる。そのようなさまざまな修行はそれぞれの個別のもちろん狙いはあるよ。エネルギーを上げるんだとか、気を通すんだとかあるけども、それら全体のさまざま武器を使って、われわれは教えそのものにならなきゃいけないわけですね。つまりまずは、お釈迦様が説いた、あるいは過去の聖者が説いた教えそのものに自分を合わせていきゃなきゃいけない。もちろん最終的にはわれわれ自身が悟りを得て、誰かの教えじゃなくて、ありのままに真理そのものを見るわけだけど、まだそこまではわれわれは行けてないので、その教えに自分を合わせていく訓練をしなきゃいけない。だからそれが修行だといってもいい、まずはね。
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