覚醒の太陽(15)
「他界のことは別問題としても、雇い人が仕事に励まず、主人が給金を与えなければ、現実的に業務は成功しない。
お互いの和楽から生じる、可見(この世)と不可見(他界)の安楽歓喜を捨てて、惑える人々は、互いに苦しめあい、その結果恐ろしい苦しみをなめる。
苦しみと危険が多いほどに、世間には艱難が多い。その全ては、自我への執着から生ずる。かような執着は、私に何の用があるか。」
来世とか三界とかニルヴァーナとか、瞑想しないと認識できない世界はひとまずおいていて、この現世と呼ばれる世界だけに目を向けたとしても、お互いが相和合し、お互いがお互いのためになすべき事をなして初めて、全てはうまくいき、安楽や歓喜が成立します。
しかし実際は、互いのエゴによって、互いに苦しんだり、うまくいかなかったりすることが多いものです。結局、全ての苦しみ、デメリットは、すべてエゴ、自我への執着から生じるのだと、シャーンティデーヴァはここでも言い切っています。そんなもの(自我への執着)に、私は用はないんだと。
「自我を捨てないでは、苦しみを捨てることができない。それは、火を捨てなければ、やけどを免れないに等しい。
それゆえ、己の苦しみを鎮め、また他の苦しみを取り除くために、私は自我を他に与え、他を自我として受け取る。」
この一行目は、とてもシンプルで、ストレートで、美しい教えだと思います。
火がやけどの直接原因であって、やけどを免れるには「火を捨てる」という選択肢以外ありえないように、自我への執着のみが苦しみの直接原因であり、自我を捨てないでは、苦しみが消えることはありえないのだ、とはっきりと述べているのです。
言い方を変えれば、苦しみとは自我意識の別名であり、自我意識とは苦しみの別名であるともいえるでしょう。だから、自我への執着(エゴ)を持ちつつ苦しみから逃れたいというのは、ナンセンスであり、不可能なのです。
しかしこの「自他の転換」の教えを使えば、自分と他者の苦しみを取り除くことができるというのです。
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