覚醒の太陽(12)
(Ⅱ)実践の対象への集中
禅定の主な実践について述べよう。瞑想のためのメソッドは数多く存在するが、ここでは菩提心を養い育てるための実践を述べる。
それには、
(a)自分と他者を平等視する瞑想
(b)自他を転換する瞑想
の二つの様相がある。
(a)自分と他者を平等視する瞑想
われわれは、自分だけを大事にして、他者を大事にしないという理不尽なことをしていることに気付かなければならない。なぜならばわれわれは、幸福を求め、苦しみを避けているという点で他者と等しいからである。このように、自と他の平等性を瞑想すべし。
『自他の平等視という思考は、努力をもって始めていく中で培われていくものである。われわれは皆、苦楽に関して平等であるから、自分自身に対するように、すべての人々を大事にすべきである。』
上記に説かれているように、まずはじめに、自他の平等視という菩提心を瞑想すべし。これは以下のように行なうべきである。
――衆生は宇宙の如く無限に存在しているが、一人として、かつてわが父、母、親友でなかった者は存在しない。
師ナーガールジュナは、以下のように仰っている。
『かつて自分の母だった者たちを、杜松の種の大きさの球と考えるならば、全大地をもってしても、その数の球を収容することはできない。』
このような引用を用いたり、論理的に思索をすることによって、一切の衆生はわれわれの親しい親族であったのだということを決定づけることができる。
そうすれば、自分が幸福を経験するときには、心の底から以下のような思考を育てることができる。
『すべての衆生が、このような幸福とその因を見い出すことができますように!』
そして同様に、苦しみを経験するときは、骨の髄から以下のような願いを育てることができる。
『すべての衆生が、苦しみとその因から解放されますように!』
その工程において、『われわれはシュラーヴァカ(声聞)の態度を発展させればよいのではないだろうか』という思考や、『わたしは他者からは何も期待せずに、自分の苦しみを払拭するのであって、他者の苦しみを払拭するために働く気はない』という思いが浮かぶことで障害が生じるかもしれないが、入菩提行論にはこのように説かれている。
『他人の苦しみは私を悩まさないからそれを防がないというなら、未来に受けるべき身の苦しみは、私を全く悩まさない。それなのに、なぜそれを防ぐのか。 』
上記に説かれているように、われわれはなにゆえに、未来のために健康、食事、衣服などを手に入れようと必死に努力をするのであろうか? 実際は、われわれの存在は瞬間瞬間終わっていて、次の瞬間は『他人』になるのである。現時点の段階では、無智の習性により、未来の自分を『自分』だと考えてしまうかもしれないが、それは単なる妄想である。入菩提行論にはこのように説かれている。
『それは、現在の私と全く同一である――というのは、誤った妄分別である。なぜなら、死せる者と、生じる者とは、それぞれ別のものであるから。』
例えば、愚かな人々は「わたしはこの急流で昨年上着をなくした」あるいは「これはわたしが昨日渡った川である」と考えるだろう。しかし、その上着を流し去っていったその去年の川の水は、現在のその川の水とは『別のもの』であり、その昨日渡った川もまた、別のものなのである。まさにそれと同じように、過去の心はわれわれではなく、未来の心もわれわれではない、何か別のものなのだ。
この段階において、このように考えるかもしれない。
「未来の心は現在の『わたし』ではないが、現在のわたしの心が連続していったものである(すなわち時間的差異のある『わたし』である)。だから、わたしは自分の幸福のために働こう!」
それと同様に、他の衆生はここにいる『わたし』ではないが、ここにいる『わたし』と連動して存在しているものである(すなわち空間的差異のある『わたし』である)、と考えて、他者の幸福のために行動すべきである。
もし、「すべての人々は、自分の頭に積もった雪を振り落とすように、自分の幸福のために行動すべきである。皆がお互いに助け合えるわけではない」と考えるのならば、入菩提行論のこの一節を熟考すべきである。
『もしも、いかなる苦しみでも、それを感受する者がまさに防ぐべきである――と考えるなら、足の苦しみは手の苦しみでないのに、なぜ足の苦しみが手で防がれるか。』
ここに説かれているように、なぜ手が、足に苦痛を与えているトゲを抜くのであろうか? 眼に入ったゴミを手で取ることや、親が自分の子供を無条件の愛で世話することや、手が口に食物を入れることなども同じことである。つまり、それらは皆、(他者と同一なる)自分のために行為しているということの例である。
要するに、他者のために働く者たちのお互いの協力がなかったならば、そして皆が自分のために活動しているだけだったならば、これまでに何かが達成されるということは極度に難しかったことであろう。ゆえに、これを理解して、真実には自分と変わりない、衆生の利益のために行為すべきである。