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要約・ラーマクリシュナの生涯(25)②

◎シャンブーチャンドラ・マリックの到来と死

 モトゥルが亡くなった後、シャンブーチャンドラ・マッリクという人物がラーマクリシュナのことを知り、ラーマクリシュナを深く愛し敬うようになった。
 ラーマクリシュナはずっと以前に、宇宙の母が、ある人物を、モトゥル亡き後のラーマクリシュナへの必需品提供者に任命したヴィジョンを見た。そしてシャンブーに初めて会ったとき、彼がその人物であることを知った。
 
 そして実際に、シャンブーのラーマクリシュナへの信仰は日増しに強くなり、かつてのモトゥルのように、ラーマクリシュナに必要なものが生じたときは何でも喜んで布施した。彼はこのような奉仕を死ぬまで続けた。
 シャンブーはラーマクリシュナをグルジーと呼んだ。ラーマクリシュナはそれを嫌がったが、シャンブーはそう呼ぶのをやめなかった。彼の妻もまたラーマクリシュナを神として崇拝した。

 サーラダーデーヴィーはおそらく1874年の半ば頃に、再びドッキネッショルにやってきた。彼女は前と同様に、ラーマクリシュナの母と一緒にナハヴァトに住んだ。しかしこの狭い部屋に住むのは不便であろうと考えて、シャンブーは彼女のためにドッキネッショルの寺院の近くに土地を買い、家を建てようと考えた。ラーマクリシュナの信者であったネパール政府の役人、キャプテン・ヴィシュワナート・ウパッダエがこれを知ると、必要な材木すべてを提供することを申し出た。
 こうして建てられた家に、サーラダーデーヴィーは約一年間住んだ。その間、一人の女性が雇われて、サーラダーデーヴィーの家事を助けた。サーラダーデーヴィーはここで食物を調理し、それを毎日寺院のラーマクリシュナのもとに運び、ラーマクリシュナが食べ終わるとすぐに帰ってきた。またラーマクリシュナもよく彼女に会いにここを訪ね、ひとときを共に過ごした。

 約一年間をそこで過ごした頃、サーラダーデーヴィーは重い赤痢にかかった。しばらくして回復してきたので、彼女は故郷のジャイラムバティに帰ったが、村に着くやいなやまた病気が再発してしまった。容体はどんどん悪化していった。これを聞いたラーマクリシュナは、フリドエにこう言った。

「ではフリドエ、まるで彼女がこの世に生まれてきたことは無駄であったかのように思われるではないか! 神を悟るというその目的が達せられないのなら、人間に生まれた甲斐がない。」

 病気がなかなか治らないので、サーラダーデーヴィーは、プラーヨーパヴェーシャナ(神の前で、祈りが叶えられるまで食を断つ修行)をおこなう決意をした。母や弟がそれを知ったら反対するだろうと思い、サーラダーデーヴィーは一人でこっそりと村のシンハヴァーヒニー女神の聖堂に行き、そこでプラーヨーパヴェーシャナをおこなった。しかし数時間も断たぬうちに、シンハヴァーヒニー女神がサーラダーデーヴィーに示唆を与えた。それに従うことで、サーラダーデーヴィーの病は回復に向かった。

 シャンブーがラーマクリシュナとサーラダーデーヴィーに奉仕を続けて四年が経った頃、シャンブーは病気になった。ラーマクリシュナは彼を見舞った後、「シャンブーのランプはもう切れている」と言った。その言葉通りに、シャンブーはその後間もなくして亡くなった。
 シャンブーは実に気前が良く、恐れを知らぬ神の信者だった。病気中も、ただの一日も、心の明るさを失ったことはなかった。 

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