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要約「シクシャー・サムッチャヤ」(19)「正念正智の守護」

第六章 正念正智の守護

「無益な努力を離れることは、正念によって成就する。
 正念は、深き尊重により生ずる。
 賢くも熱心に生ぜられた尊重は、シャマタ(寂静)の偉大なる心である。」

 12の正念によって、無益な努力を排することができる。

1.如来の教えから外れず、正念を尊重する。

2.一切の身体において本質を見ず、正念に安住する。

3.衆生を利益するための行ないをなし、正念を堅固にする。

4.もろもろの智者の前でも心を動かさず、正念をもって行動する。

5.動いているときも、止まっているときも、座っているときも、横になっているときも、常に正念をもって自己を省察する。

6.動いているときも、止まっているときも、座っているときも、横になっているときも、常に心を安らかで平静に保ち、心の乱れが生じないように正念する。

7.言葉を発するときや笑う時も、謹んで教えを守り、正念を守る。

8.もし誰かに教えを説くときには、相手の身分などに関係なく、一語一語、正念をもって言葉を発する。

9.もし法友とともにいるときに、彼が過失を起こしたとしても、一緒に過失を犯すなかれ。自己の心を守り、彼の心を清らかにさせ、正念を守護する。

10.心は酔った象の如し。寂静の瞑想をもって常にこれを調御する。これを正念となす。

11.正観の瞑想によって常に自己の心を照らすべし。これを正念となす。

12.衆生が現世的に豊かなのを見ても、それらに対する貪りの心を捨て、一心に念じ、心を守護する。これを正念となす。

 これらの正念を成就すれば、無益な努力を排することができる。また、この正念において尊重を得る。尊重は、行動において、一切の心の様態の主である。その反対は不尊重である。

 賢くも熱心に生ぜられた尊重は、シャマタ(寂静)の偉大なる心である。何を寂静というのか。

 シャマタとは、障害なき寂静の心である。もし心が乱れなければ、遠からずしてシャマタを得ることができる。
 もろもろの感覚意識や性質を守り、高慢にならず、不動にして、心揺れることなく、慎み深く、善にして、高貴にして、心が一点に集中している。一人寂静の地に住し、怒りと執着を捨てる。身体から快楽の事柄を遠ざけ、心は動乱なし。意識は寂静を願い、悪しき事柄を求めることがない。動いているときも、止まっているときも、座っているときも、横になっているときも、常に正念を守り、時を知り、量を知り、足るを知る。
 このようにするならば、シャマタは養いやすく、完成しやすい。

 
 では、いかにしてよく尊重を生じさせ、よく如実智を生じさせることができるのか。

「心統一せる人は如実智を得る、とブッダは言った。
 寂静より心動かさず、外的行動の中でも心統一せよ。」

 法集経には、次のように説かれている。

「サマーディの心において、如実に見ることを得る。
 菩薩は、すべての衆生に対して大悲の心を起こし、一切の衆生を常に救済するために、サマーディを得、一切の法において如実に見ようとする。そして大悲をもって戒・サマーディ・智慧を増大させ、学ぶべきことを超え、無上の最正覚を成就する。
 そのために、清らかな戒において不動であれ。怠惰であることなかれ。」

 このシャマタの境地は、自他平等にして、無量の罪苦を超越し、解脱の無量の富と至福を得る。常にそれを求め、向かい、発動し、修習すべし。火事の最中に水を求めるように、全力でそれを求めるべし。
 教えを学ぶ聖なる弟子は、常にこのような正念の境地に住すべし。正念を行なう者は、無益な努力から遠く離れることができる。無益な努力から遠く離れる者には難は生じない。ゆえに、自己の心身を守りたいと思う者は、常に正念を追求すべし。

 最上授所問経には、こう説かれている。

「在家の菩薩において、飲酒や、怠惰な場所に対して楽しまず、願わず、愛著しない者は、正念正智に近づくが故に、愚鈍やこん沈に陥らない。不動にして、狂乱や高慢や罵倒等に陥らない。」

 もし正念であれば、一切の煩悩は発生しない。
 もし正念であれば、一切の魔事は生じるチャンスがない。
 もし正念であれば、邪道や悪道に堕落することはできない。
 もし正念であれば、一切の不善の心は生ずることはできない。
 これを正念という。

 月燈三昧経には、こう説かれている。

「戒が清浄無垢であれば、速やかにサマーディを得る。
 サマーディに入ることによって、より戒を清浄にすることができる。
 このゆえに、正念正智によって戒を守り、サマーディを得、一心なるサマーディによって智慧を得るべし。」

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