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菩薩の道(6)その4「神通力」

 お釈迦様や、その弟子たちが解脱を果たしたときの表現として、「三明を得た」という言葉がよく使われます。
 ここでいう明とは無明の逆で、無明が晴らされて現われてくるものですが、これはヴィディヤーといって、ヨーガ経典などでは神秘的な超能力といった意味でも使われます。また、智慧を表わす言葉の一つでもあります。

 この三つの明とは、宿命智、死生智、漏尽智の三つです。
 宿命智とは、自分の様々な過去世を知る智慧のことです。
 死生智とは、様々な生き物の生き死にを、どのような行為によってどのような果報を受け、どのように死に、どのように生まれ・・・といったことを如実に知る智慧のことです。
 そして漏尽智とは、すべての世界における煩悩の漏れを断じつくし、また四諦の真理を悟りえた状態です。

 これが解脱の表現とされているのは、どういうことでしょうか。
 宿命智と死生智を得るということは、自分と他の衆生が、遥かな過去から、現在、そして来世に至るまで、カルマの法則にしたがって、様々な流転を繰り返す様を知るということですね。
 これによって、様々な真理の現実を知ることができるでしょう。
 まずカルマの法則性を如実に知ります。
 すべての無常性を如実に知ります。
 そして、人と人との関係が、単にカルマの縁によって成立していることを知りますから、平等心が身につくでしょう。
 衆生が皆、過去か未来の自分と同じであると知ることで、衆生への無条件の慈愛が生じるでしょう。
 すべてがただカルマ、縁起によって生じては滅しているだけだと知ることで、執着や怒りは消えるでしょう。
 つまり、縁起の法を初めとする仏教の様々な真理が、単に論理的思索によって理解されるのではなく、この宿命智と死生智によって、現実的にリアルに経験でき、理解されるのではないかと思うのです。
 これは私の私見に過ぎませんが。
 
 そしてさらに漏尽智。四諦を悟るということはどういうことでしょうか。苦しみや煩悩のあり方、それらが原因から生じること、そしてある方法によって滅すること。そして滅して現象化する明と解脱の境地。これらを如実に知るということは、ここまで来た者は、それらの四諦の法則の外にいるというか、それを離れた状態から、それを自在に理解している状態、すなわち、カルマの法則も含めたあらゆるこの世の法則性から離れた心の状態にあるのではないかと思うのです。これも私の私見ですが。

 さて、原始仏典では、この三明に、神足、天耳、他心といった力を加えて、六神通といいます。
 神足とは、テレポーテーションとか、体をいくつにも増やしたりとか、空を飛んだりとかする能力です。
 天耳とは、神と自由に会話する能力です。
 他心とは、相手の心を如実に知る能力です。

 原始仏典ではそういう超能力的な話がバンバン出てきます。
 そして特にこれら六神通が正式に身につくのは、前に書いた「四つの禅定」を経験した後である、といわれています。
 ここが重要なところです。

 現代では、いろんな人が、「あなたの前世はこうですよ」とか、「あなたにはこんな霊がついてますよ」とか、「あなたの来世はこうですよ」とか、「神はこう言っております」とか、いろいろ適当なことを言っていますが、こういうことを言う人に耳を傾けてはいけません。
 少なくとも第四禅定という非常に高い瞑想状態を経験しないと、真にこれらの神通力は身につかないのですから。
 第四禅定を経験しなくても、いろいろな声が聞こえたり、見えたりすることはあるでしょう。
 実際、修行中にもいろいろな神秘的な現象が起きますし、また、修行しなくても生まれつきそのような能力のある人もいるでしょう。
 しかしそこで経験する情報が本物なのか、偽者なのか、神なのか悪魔なのか、それを判断するのは非常に難しいことです。
 本人にいかに信念があっても、関係ありません。その人が低いカルマに陥っていれば、低い現象に信念を持つのは当然ですから。
 私は今まで、偏った修行の実践により、いわゆる魔境的な状態に陥っている人を何人も見てきました。
 そしてそういう人は、ある程度の能力を持っていることも確かなのです。
 その深い意味については長くなるので詳しくは書きませんが、簡単に書きますと、霊的な世界に足を踏み入れれば、当然、それなりの力がつくのです。しかしそこに心の清浄・透明さや、神やブッダの祝福が伴わない限り、それはダークなものであって、また不正確なものであると言えるでしょう。
 たとえば心が汚れている場合、何かを映し出す能力がついたとしても、そこに映し出されるものは、その汚れを反映したものとなるでしょう。
 完璧な心の透明さが得られない限り、完璧な正確な情報は得られないのです。
 しかし慢心の強い者や、カルマの悪いものは、ちょっとした自分の体験を、本当の神通力だとか、解脱だと思い込むパターンが、昔も多くあったようですし、今も多くあるようです。 
 ですからブッダは、弟子たちが自分勝手に神通力を得たとか、解脱したとか思い込まないように、四つの禅定、そして六つの神通力といったようなアウトラインを設けたのかもしれませんね。これらのプロセスを正しく踏まない限り、それは間違いですよ、と。

 さて、話のついでにもう一つ言及していきますと、原始仏典では、この六神通の説明の前にもう一つ、「意生身」と呼ばれるものが出てきます。
 これは、この肉体とは別の、心からなる身体を自在にあやつるというものです。
 これはいわゆる幽体離脱とは違います。後の密教やヨーガ、あるいは仙道においては、このような「もう一つの身体」というのは、化身とか、幻身とか、陽神とかいわれますが、非常に重要視される修行なのです。それは非常に高度な段階の修行といっていいでしょう。
 その原理となる思想のようなものが、この原始仏典にすでに出ているというのも面白い気がします。
 ちょっと見方を変えてみると、原始仏教というのは、今一般に考えられているイメージよりも相当、密教的な感じがしますね。
 だって、四つの禅定から神通力、解脱のプロセスを見ると・・・まず初期から中期の禅定においては強烈なエクスタシーに浸り、最後の禅定で苦楽を越える境地に入り、そして化身を自在に操り、空を飛んだりテレポーテーションしたりという力も身につけ、神と会話し、人の心を知り、自分と他人のいくつもの過去生や来生を知ることによってこの世のすべての法則を理解し、そして最後にすべての煩悩を断じ尽くし、解脱するというわけですから。非常にダイナミックで、面白いですね。

 もちろん、大乗仏典や密教経典の世界では、もっと多くの様々なものすごい禅定、ものすごい神通力の世界が繰り広げられるわけですが、それらもこの原始仏典の禅定や神通力の記述をもとにしているのでしょうね。

 まあつまりまとめますと、今回書きたかったことは、智慧というものをリアルに考えた場合、それは単なる精神的な真理の理解にとどまるものではなく、実際にこれらの神通力によって、あらゆるものをありのままに見、知り、経験する、という要素が必要なんだと思いますね。

 お釈迦様の呼び名の一つに、世間解というものがあります。これは「世間を理解した者」という意味ですが、ここでいう世間とはローカといい、世間というより世界といったほうがいいかもしれません。つまりすべての世界を、あるいは世界のすべての要素を、神通力を初めとする智慧によって理解した者ということです。

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