菩薩の道(5)その6「五蓋と徳の光」
お気づきになった方もいるかもしれませんが、第一段階の「歓喜地」のところの話で、この初禅に対応する話はすでに出ています。
あるいは、経典では、第三段階の忍辱に対応する「光を発する」の段階ですでに戒・定・慧が達成されていることになっています。
これはおかしな話です。定というのはサマーディ、慧というのはプラジュニャーの智慧のことですから、第三段階は忍辱に対応するといっておきながら、同時にもう六波羅蜜も、修行のすべても終わっているのかと。
仏典における項目というのは、もともとこのように絡み合っています。特に大乗というのは非常に複雑な構成になっているんですね。
大雑把に言ってしまうと、菩薩の道というのは、単純に上に上がる、あるいは深く入る、あるいは汚れを除くだけの道ではなく、広く広がる道です。広く深く高く、純粋で清浄で広大無辺な心を作り上げていく道なのです。ですから、菩薩の道のプロセスというのも、いかにニルヴァーナに入るかではなく、いかにそういう広大無辺な存在になっていくかに主眼が置かれるんですね。
だから、たとえば初禅で私の経験を書きましたが、だからといってもちろん、私がこの菩薩の第五段階に達しているというわけではないということはお断りしておきます。菩薩ではなく個人の解脱だけを目指す道でも、この禅定のプロセスは必要なわけですから。しかしその内容や広がりが違うわけですね。
特にこの初禅はその前の段階の念をもとに、深い意識での思索や、心の修正を行なうわけですが、ということはその念が大乗的な念であるか、単に基本的な四念処的な念であるか、等によって、この禅定における思索や修正の内容も変わってくると言えるでしょう。
ところで、この念と初禅の関係についてもう少しだけ付け加えておきますと、正しい念の確定がないと、深い意識での思索や検討ができません。
そもそも思索というのはまず材料があって、その材料を組み立てていかなければいけないわけですが、頭で教えを理解したつもりになっていても、それが深い意識に根付かされていなければ、普段はいろいろと薀蓄を語ることができても、深い瞑想に入ったとき、その心の世界にはその教えが入っておらず、したがって以前から根付いている現世的な材料でしか思索ができず、誤った答えしか導かれないということになってしまいます。
実はこの逆もあります。過去世から修行している場合、深い意識に入ってみたら、表面的には気づかなかった、知らなかった真理の教えが、心に根付いているのを発見することもあります。
しかし普通は、深い意識に入っても真理の思索ができるように、しっかりと念正智を固めておくべきでしょう。
ところで、そもそもそんな深い意識に入って思索ができるのかということもありますが、もちろん、普通はこれは不可能です。これは、たとえるならば夢の中で思索するようなものですから。
だから鮮明な意識というものを作り上げる必要があるんですね。
そのためには、いろいろな要素がありますが、簡単にいうと、煩悩や雑念があると駄目です。
だから「煩悩を捨てろ」というのは、決して道徳論ではないんです。
煩悩(渇愛)は苦しみの因である、というのはもちろんあります。しかしそれだけではなくて、煩悩があると、意識が不鮮明になり、深い意識化での集中力が阻害されるんですね。心の中が交通渋滞状態になるわけです。
だから煩悩や雑念を整理し、深い意識でも思索ができるような、透明で静まった心を作り上げる必要があるわけです。
そのためには、たとえば八正道のプロセス等で、日々の生活から、しっかりと自分の心・言葉・行為を正していく必要もありますね。
そして実際に瞑想に入ったら、普通は五蓋というものが瞑想の障害とされ、それをいかに対治するか、というのが、瞑想に入るポイントになります。
五蓋とは、簡単にいえば、まず第一は執着の心ですね。いろいろなものに執着があると、当然、心はその部分に染められ、結び付けられ、不鮮明になります。また、執着が多くあると、ゴミがたくさん浮いた湖のようなもので、瞑想に入ってもわけがわからなくなります。あるいは偏った答えしか出せなくなります。
二番目は、怒りです。まあ、憎しみとか怒りとか、そういうものが心の奥にあると、もちろん瞑想できません。これについては慈悲の瞑想等が一番良い対抗策になりますね。
三番目は、疑いの心です。三宝や、仏法や、真理の教えに対する疑い、あるいは自分が今やっている修行に対する疑い、あるいは悟りのすばらしさや、菩薩や仏陀の境地に対する疑いなどがあると、良い瞑想には入れません。
これはヨーガ経典でも同じことをいっています。「ヨーガ修行を成功させる第一の条件は、わがヨーガ修行は必ず身を結ぶであろう、という信念である」と書いてあります。
四番目は、心が騒いだり、浮ついたり、興奮している状態ですね。
そして五番目は逆に、心が落ち込んだり、眠気が強かったり、怠惰だったりする状態ですね。
これらに対してそれぞれ分析し、対抗策をぶつけて解決していかなければ、瞑想はできません。ただ座っていればいいというわけではないわけですから。
そしてお釈迦様は、これら五蓋が除かれた状態を、透明な湖にたとえています。つまり五蓋とは、この湖をかき混ぜたり、ゴミをまいたり、濁したりして、湖の透明度を阻害する条件だということですね。それらを除去して・・・ヨーガ的にいうならばサットヴァの性質を強めることで、心の湖は、透明で、波のない状態になります。透明で波のない状態になって、初めて、湖の中や、底の状態を観察することができます。そうならないと、瞑想はできないのです。
ところで、修行によってこの五蓋、あるいはさまざまな雑念を除去することを進めていると、ある時期、逆に雑念が増え、瞑想がしづらくなったり、煩悩が増えたような感じがすることがあります。
しかしこれは実は良い傾向です。それには二つのパターンがあります。
一つは、今まではあまりに雑念や煩悩が多かったために、逆に安定しているかのように見えていたのです。たとえばここに白いボードがあって、ここに黒いマジックで点を書いていきます。その点がどんどん増え、最後には真っ黒くなります。すべて真っ黒いボードにみえるのです。これは一つの安定です。これが多くの人の心の状態です。しかしこの黒い点が一つ、二つと除かれてくると、まだらになってきます。それは良い方向へ向かっているのですが、以前よりも、いかに自分の中に汚れが多くあったかというのが理解できるようになり、まるで以前より煩悩や雑念が増えたかのように見えるのです。
もう一つのパターンは、瞑想に慣れ、心を見ることに巧みになってきたために、以前気づかなかった煩悩や雑念によく気づくようになったという場合です。
そして、まあこれは智慧のパートで書こうかと思っていたのですが、この心の世界を照らす光、これは「徳」の光です。
修行には、「徳」と「智慧」の二つの要素が必要です。そしてこの世において正しく生きることによって、つまり八正道や、六波羅蜜等によって積まれる徳というのは、心を照らす光となるのです。先ほどの湖の例えで言うと、湖が透明で静かであっても、暗かったら、やはりその奥を見ることができません。この湖を照らすサーチライト、あるいは太陽の光となるのが、徳という要素がもたらす光なのです。徳とは、もっと平たく言えば、「良いカルマ」といってもいいでしょう。
我々はこの世に身をおくうちはカルマの流れに左右されるので、良いカルマを積み、悪いカルマを浄化することにも尽力しないと、瞑想はできません。そして徳というのは、曖昧な概念ではなく、実際に瞑想において心を照らす光になるんです。
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