菩薩になろう
ダルマを背景に、
自我の放棄と
利他の実践、
あるいは自他平等や自他交換などを突き詰めていくと、
結局、衆生のために仏陀になる道、
つまり菩薩の道を歩くしかなくなる。
「私」はないのだが
「私」と錯覚されているこの五蘊がある。
「五蘊もないのである」と言って山にこもるのも一つの道だが、
そうではなく、無我の境地で五蘊を生きるとしたら
その五蘊は、世界すべてのためのただの道具とならねばならず
それはまさに菩薩の道に他ならない。
多くの苦しみや喜びが、
称賛や非難が、
得るという錯覚や失うという錯覚が、
私を幻影へと呼び戻す。
そして私は、「私は!」「私が!」「私を!」「私の!」「私に!」という
妄想ゲームに引き戻される。
この「私の心」を綺麗にするのだ。
私が「私」と錯覚しているこの心を、綺麗にするのだ。
心が透明になったとき、やっとそれは
「私」が存在していなかったという事実をあらわにし、
その奥にあるともないともいえない、何かを見つけるだろう。
ある段階以上の菩薩は、多くの化身を飛ばし、多くの世界で同時に救済をおこなう。
それは、自我意識のリミッターが外れたからだ。
彼は生きているようで、生きていない。
それは忠実に任務を実行しているスパイのようだ。
彼を「彼」と定義する要件は
彼を見る者たちの、至高者との結びつきに他ならない。
それは、夜見る夢に、「ただの記憶の夢」と「光明の夢」があるようなものだ。
仏縁ある衆生にとっての「光明の夢」である彼は
太陽光線のように無意識に、暖かい恩恵を、衆生に施す。
彼にはこの世の夢はない。
ただ衆生の解放のためだけに、無数の世界を生きる。
そんなものに、なろう。
仏教やヨーガの修行とは、そのためにあるのだ。