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菩提道次第の歌

菩提道次第の歌

※この作品は、ダライ・ラマ五世の「菩提道次第の歌」にインスピレーションを受けて、私が私の見解も含めてまとめたものです。

松川慧照

完全なる覚者の法の保持者であるグルのお口から出る
すばらしい正法の言葉に、しっかりと耳を傾けなさい。

プライド等によって教えが入らない、
誤った見解を持ち、教えが入らない、
我見が強く、教えが捻じ曲がる、
教えを聞いてもすぐ忘れる、
これらの欠点を捨てて、
正しく素直な心をもって、教えを聞きなさい。
そして、はるかな過去から蓄積してきた功徳の蓄積を、呼び起こしなさい。

過去に現われた、真理に通達したすべての聖者たちのお心は
偉大なるダルマを精髄としている。
偉大なるダルマは、すべての衆生を救済するすばらしい薬であり
不死の甘露であり
最愛の友であり
また、出会いがたい道でもある。

おお、この最上の道を、学び、考え、瞑想している
縁ある衆生よ。
一つの短い生涯だけのための、取るに足らないさまざまなものを捨てて
輪廻を超えた幸福を得るために、あなたの道を切り開きなさい。
すなわち、心の連続体に、現世への執着を嫌悪し否定する感覚を教え込んで
心の本性という永続する宝物に心を向けなさい。
愛著・嫌悪・迷妄という三つの毒を生み出す、無智な駄弁をやめ、
ぼろをまとい、瞑想修行に身をおきなさい。

このようにして、身体と言葉と心は、白い善のカルマを徐々に生み出せるようになり、
人は、永久の幸福という目標を達成する。

飢えと渇きに苦しめられている者たちに
飲食物や衣服などの財を施す者を、
また、敵の危害から守ってくれる優れた指導者を、
人々は「恩ある人」であるという。

しかしながら、終わりなき輪廻における
激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの苦しみと恐怖から、私たち衆生を完全に解放して
永久の安楽という宝物を施すような
師の恩恵は、誰がはかれようか。

一時的なニルヴァーナの境地さえも、到達しがたい。
ならば、完全な仏陀の境地は、どれほど到達しがたいのか。
根本の師とは、本来ならば何カルパにわたっても得がたいほどの高度な境地に私たちをお導きになる
過去・現在・未来の仏陀たちが具現化したお姿そのものなのではなかろうか。

師の行動に過ちがあると思ったとき
私たちは、それらは自分の心のけがれの投影であるとみなすべきではなかろうか。
自分が心底から腐っていると確定して
すべては自分のせいであると理解して
師への不遜な思いを、毒のように断じるべきではなかろうか。

師の振る舞いに対する、曇りのない清らかな見方を養い育てなさい。
師が教示された言葉通りに実践しようという、敬愛・信受の心構えを養い育てなさい。
そして、何をしても修行となるような、深い核心たる態度を育て上げなさい。
つまり、何を考えてもすべてが修行の成就に向かうという、真理の「鍵」を養い育てるのだ。

多くの過去世において
世俗的な栄光と所有物を享受し続けてきた。
しかしながら、愚かな者たちよ、あなた方は、
いまだに自分が哀れな苦しみの中にあると知りながらも
今生の食物や財産や富裕さなどに固執し続けている。

過去世においても、さらにはほかならぬこの現在の生涯においても
こうした同じやり方に従っており、
悪魔に心を支配されて、
得る事を喜び、失う事を悲しみ、
快楽を喜び、苦痛を嫌がり、
称賛されることを喜び、非難されることを嫌がり、
名誉を喜び、不名誉を嫌がるといった
二元性の幻影の中に引きずり込まれている。
その結果、苦しみは幸福と取り違えられて
魂の本当の目的は捨てられるのである。

現在とは、究極的な幸福と利益を成就する根本であって
真理に出会い、修行に適した稀な条件という船を
奇跡的に得ているのである。
私たちがこの船を得ながらも、「永久の安楽」という宝の島へ赴かずに、
輪廻界に、空っぽの手で舞い戻るとするならば、
それは誰のせいでもない、私たちの心根にこそ問題があるのだ。

カルマと煩悩の力によって引き起こされたこの生存は、
生まれた瞬間から、一瞬たりとも停止することなく、
死へと向かっている。
ここに永遠にとどまろうとすることほど、愚かなことはあるだろうか。

死がやってくる年月日は、全くわからない。
老人も成人も青年も子供も、順番なしに、死の餌食となっていく。
しかし、そうだとわかっていながらも、人は、
心の中では、自らの臨終のときを、はるか遠くに思い描いているものである。
あなたは、見える目を持ちながら、見ても見えてはいないのだ。

私たちは、自分にとって本当に有益なものを見逃して
代わりに、わずかな利益しかないものを
有益であると思い込み、追い求めている。
しかしながら、死が到来したとき
あなたは、すべてを後に残して、
一人で恐ろしいバルドの旅路を行く。

そして地獄へ落ち、
火炎が燃え盛る鉄の部屋の中で
切られ、裂かれ、砕かれ、
さらには血の河に落とされる。
このような有様を知って、それでも恐れない者は、
心が悪魔にとらわれているといわざるを得ない。

他のある者たちは、寒冷地獄へ落ち、
光なき暗闇の中、凍てつく冷風の中にいるのに気づく。
その弱い身体は、鋭利な冷たい刀で
何百何千に切り刻まれるが、死ぬことはない。
悪業をなす者は、このように地獄で常に苦しめられる。

今私たちは、できものや腫れ物、病気のわずかな痛みにさえ
自分が耐えられないのに気づく。
動物界に落ちたら、他の動物に、生きたまま食べられる。
この終わることのない苦しみを思って、心底から打ち震えないとしたら
その人は、心を持たない無機物ではなかろうか。

今私たちは、飲食物その他の、現在のこの短い生涯を利益するだけのもののために
多くの努力をしている。
餓鬼界に落ちたならば、一万年とも五千年ともいわれる寿命の間は、
耐え難い飢えと渇きの苦しみのために、疲れ果てながらも、さまよわなければならない。
こうしてさまよいつつも、得られるものはわずかである。

このような、耐え難い三悪趣に落ちるかもしれない断崖絶壁にあっては
体毛をほんのわずかに動かすのも危険である。
それにもかかわらず、
得ること・失うこと、快楽・苦痛、称賛・非難、名誉・不名誉などにとらわれたり、
敵と味方を分け、敵を打ち負かし味方を守ろうとしたり、
そのような危険な幻影の中で、利害や損得を懸命に操ろうとしているあなたは
なんと愚かであろうか。

この輪廻の生涯は、稲妻の光のようにはかない。
この短い生涯にあって、幸福を得る手段として
社会的地位を積極的に追求したり
現世的目的を達成して喜んだり
そうしたことに心を奪われる者たちがいる。

これらを見るとき
耐え難い悪趣の恐怖から救済してくださる保護者にして、
幸福と解脱への道を詳しく指し示した、かくも大切なものである
欺くことない仏陀と、仏陀の教えと、聖者たちに
出会えた事を喜びなさい。
この出会いは、これまでにはるかな過去から積んできた功徳によって
生み出されたものなのだから。

私たちは、かつて
私たち自身の悪業によって落ちた悪道において
耐え難い苦しみを経験したが
そうしたことは、もう十分ではないのか。
それを骨身に刻んで、
智慧ある者よ、より善い転生のための基礎を確立しなさい。

私たちは、生来の無智という病によって
何を取り、何を捨てるべきかを見る眼が曇らされており
自分の心をきれいにすることを忘れ
自分の顔のシミや服の汚れなどを
きれいにすることが大事だと思ってしまうのだ。

人々にとっては、集めてもすぐになくなるような、はかない財物が宝物である。
彼らは、痕跡のない鳥の道や、水に描いた絵のような、はかないもののために
身体と言葉と心のすべてをもって
大変な努力をし、苦労にも耐えているのである。

真理を学ぶゆとりのないこの生涯にあって
敵を害し、愛するものを守るなどの幻影の価値観は
夢の中で経験する苦痛や安楽に似ている。
現世の価値観にとらわれて人生を送るならば
そのような人生の本質は、心騒がしく時間を空費することである。
耐え難い地獄の苦しみを生む燃料が
この上さらに必要なのだろうか。

無知蒙昧の者が、この生涯の目的のために
不善の行為を犯してしまうのは、現実にあることである。
私たちが数多く学んだ経典の教えに順じた
すべての衆生を救済するという、究極的な願い・目的を
忘れ去り、風に飛ばしてしまうのは、恥ずかしいことである。

おお、春にまかれた種子は
秋には、それに応じた収穫をもたらすものである。
これと同様に、善なる行為も、悪しき行為も、原因となって
それに応じた幸福や苦しみという果報を生む。
こうした理法を思索して、
何を取り、何を捨てるかを、大切にしなさい。

犯した悪業を懺悔すること、
二度と悪業を犯さないと決意すること、
仏陀と真理と聖者と菩提心をよりどころとすること、
そして、悪業や煩悩に対する具体的な対抗手段。
これらの力は、長きに渡って繰り返し実践して習熟することによって
悪趣の原因となる習性を、根こそぎに断つ。

私たちは、子宮という暗闇の中で過ごした後、
出生の激痛に直面しなければならない。

その後しばらくは、身体は若く、花が開くように成長するが、
すぐにその頭髪と眉毛は、雪のように白くなり
輝きを増していたその色艶も、夜のように黒ずんでいく。
そしてまっすぐだった姿勢は、弓のように曲がる。
やがては、好きなものを楽しむこともできなくなり
完全に老いにつかまれる。

薬も、占いも、祈祷文も、
福寿を祈る儀式も、何の助けにもならずに、
日に日にだんだんと衰えていく。
友人や親族や近しい人たちも、嫌がって避ける。
これらは、死後の世界の主・ヤマ王が
あなたを呼び出すためにつかわした使者なのである。

現在のところ、心は、身体と一体となっている。
しかし、まもなくこの形ある身体は、死の床に横たわり
心だけがたった一人で、バルドの長い旅路をさまようのである。

多くの方法を駆使して、死を制止しようとしても
死の条件が雨のように降ってくる。
体力の限りに集め守っても、財産や友人たちは
あらゆる方向に散り散りに離れていく。

神々でさえも、死の兆候が現われたときには、
身体は神の栄光を享受しながらも、心は地獄の恐怖に苦しむのだ。

鳥が、空の世界を自由に飛びまわっても、最後には地上に落ちるように、
私たちは、輪廻の頂点に上ったとしても、
再び低い世界に落ちて、悲嘆にくれるのである。

申し分のない天界の神々たちも
再びまた悪趣に落ちる。

人間として生まれ、真理に巡り会った今こそ、
輪廻に別れを告げる最高のチャンスなのである。

無始の過去から
自分の心と一時も離れることのなかった、煩悩。
私たちは、この煩悩を頼りとしてきた。
そしてそれによって、果てしない輪廻の海に投げ出されたのであった。

望みもしないカルマの風が、煩悩に強く働きかけて
私たちを、激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの苦しみの波間に置いていく。
煩悩がある以上、私たちは、輪廻を永久に回り続けるのである。
ゆえに、煩悩は第一の敵であると考えなさい。

人は、人生において現われた敵を倒したとき、それを「勇敢」と呼ぶ。
ならば今こそ、この最大の敵である煩悩を征服するときが
確かに到来したのだと考えなさい。

人間の身体を得て、真理を学ぶためのさまざまな条件を満たし
覚醒に至る道である、戒・サマーディ・智慧という三つの実践修行を知る
この幸運な時にあって、もし苦しみの原因である煩悩の軍隊を断じないならば
再び生死の地平において、苦しみに支配されるのである。

はるかな過去世から、煩悩によって行為をし続け
それは心の連続体の中に、結果を生む習性として刷り込まれる。
この習性は、渇愛と執着によってより増進され
来世の再生を力強く成立させる。

習性から来る識別によって、五蘊すなわち自我意識が成立し
「自己」と「他者」の区別が、はっきりと顕現する。
自我意識は、欲求の対象に働きかけて、接触し、
楽・苦・どちらでもないという
三つの感覚を経験する。
こうして輪廻の世界に強く結び付けられ
再び出生、老い、死を繰り返していくのである。

要するに、輪廻の生存は、十二縁起であらわされる原因と結果の連続によって
生起する現象なのである。
この十二縁起という現象を
今こそ、逆にたどり、
無明と苦しみを滅するべきではないだろうか。

清らかな生活を作り、維持する
「戒律」の修行は
すべての基礎であり、
幸福を生み出す善い田畑である。
この田畑において、水と肥料となるのは、
柔軟な心である。
幼い苗を、実りの果実へと成熟させる太陽は、
深いヴィパシャナー(正観の瞑想)である。
こうして、輪廻の苦しみを根絶する。

心が怠惰さを克服した境地にある者は
サマーディに至り
百股のヴァジュラによって
輪廻の生存への一切のとらわれを打ち砕くのである。

果て無き輪廻の大地の上に
真理の法による戒・サマーディ・智慧という如意樹を生育させなさい。
その樹は、苦しみの炎によって焼かれることはなく
永遠の幸福と不死の甘露を実らす、すばらしい庭になるだろう。

果て無き輪廻の苦しみの大海の中で
輪廻を心底から嫌悪し、精進し
宝石のようにかけがえのない、戒・サマーディ・智慧の階梯を上るのはいいが
自分だけが、寂静と幸福という邸宅に入る者たちがいる。

かつてあなたの友であり母であったすべての衆生が
いまだに輪廻の牢獄に閉じ込められて
苦しみ叫んでいるのを目の当たりにしながら
放置することができるならば
あなたほど恥知らずな人はいない。

すべての衆生は、過去世において、
あなたの優しい父であり、母であったと知りなさい。
そして、その恩を心にとどめることによって、
「『衆生救済の責任を担おう』という特別な決意」という船に乗り
慈愛と哀れみという強い風の力によって
全智者の宝島に向けて、直ちに旅立ちなさい。

自己と他者を入れ替えるという秘法によって、
自分に害を与える敵でさえも、実は愛すべき親友であると、確信しなさい。
利己的知性の根本を断ち切りなさい。

エゴに執着し、大切にする心を乗り越えてください。
そして、自分に害を与える者に、
報復の代わりに利益をもって応答するという「鍵」を使って、
自己と他者の二つの利益を自然に成就する
「幸福と安楽の門」を開けてください。
このように、同時に二つの利益を成就するのは
ああ、なんというすばらしい奇跡であろうか。

心の本性は、体験と認識として、少しずつその芽をあらわす。
その芽をよく育てる水分や温度とは、
修行の艱難辛苦によく忍耐することである。
それによりその芽は、正しい悟りという果実として、豊かに結実するのである。
これは、小乗・大乗かかわらず、修行者が歩んでいく同一の道である。

自分を傷つける衆生たちを
過去世では父母であったとみなし
この心構えをもって
命を懸けて、魔と戦わなければならない。
慈悲の甘露水を飲み
「『衆生救済の責任を担おう』という特別な決意」を
堅固に成就した菩薩は、
大変稀有な存在である。

この大乗の道は、空のように広大である。
聖なる教えは、大海のように奥深い。
しかし、今の世を生きる私たちの智慧は、夜のように暗く
自分を偉いとうぬぼれている多くの人たちの智慧は、乾いた草のように細い。

だからこそ私たちは、真理の教えという手を使い
心臓のナーディの結び目を解きなさい。
常に真理の教えに慎重に耳を傾け
心を無限の真理で満たしなさい。

布施の心を起こし
恩あるすべての衆生に
身体や財産をはじめとするあらゆるものをささげ
はるかなときにわたって与え続けること
そうすることによって、
尽きることのない永久の喜びを
今ここで成就するのだ。

過去に積んだ多くの悪業の力によって
衆生は現在、苦しんでいる。
限りない衆生を苦しみから解放しようという熱望を抱いて
布施の完成の修行を実践しなさい。

修行する条件がすべて整った、この恵まれた人生という庭には
菩薩の戒という、願いをかなえる樹がある。
この樹には、ニルヴァーナという果実がたわわに実って垂れ下がり
幸福と安穏というおいしい果汁が滴っている。

数え切れないカルパにわたる
布施の実践は
喜ばしい財産であるけれども
私たちが、人間や神などの善趣に再生できるかどうかは
布施に加えて、戒の遵守の実践にかかっている。

ひとたび獲得した
人間の生涯という、このかけがえのない車も
善行を行なわずに、勝手気ままに運転すれば
堕落という泥の中にはまり込むのである。

この幸運な生涯という平原の中にありながら
戒の実践によって自分を作り直し
自分を苦しみから引き抜こうとしない人は
悪魔にとりつかれているのである。

多くの生涯の間に積み上げられた、功徳と智慧という樹林を
一塊の「怒り」という火がたやすく燃やし、
悪業という燃えた切り株を、輪廻の荒野に積み上げる。
この「忍耐できない」という敵こそが、苦しみの源である。

不自由なカルマと輪廻は、その険しい山の頂上から
悪しき果報という土砂を、流れ落としてくる。
輪廻の谷の中に住む者たちは、
自身がこのような悪業の中でもがいているのに
どうして他の誰かを誹謗し叱責するのか。

私たちは、エゴという組織的な軍隊との戦いの只中にある。
今こそ、「忍辱」という頑丈な鎧兜を身につけるべきである。
殴り、打ち、悪い言葉を吐くといった武器を用いることなく
「他者への害心のない平安な心」という武器により、自身のエゴを打ち砕くこと
これこそがすばらしいのである。

物事の真実相に対する迷妄と、愚鈍と、精神的な怠慢さなどから起こる幸福の味は、
利益がなく、心が対象に流されて散り乱された、心穏やかならざる状態である。
このような幸福は、たとえどれほど味わったとしても、
心が満ち足りることはない。
それは、喉の乾いた人が、塩水を飲むようなものである。

闘争心によって、強い敵に対して、
能力がないのに、自分を高く見せることがある。
それなのに、仏陀の境地に対しては、
必ず達成することが可能であるにかかわらず
心が萎縮し、智慧の劣った者は、
「自分にはできるはずがない」などと言う。
これは誤っている。

この生涯には十分な時間がないと知って、
永遠の幸福を達成する、この正法の実践を
一日も無駄にせずに、わが身に鞭を打って精進するならば、
間違いなく、人は誰でも、
解脱というあの島に向かって
確実に進んでいくのである。

怠惰、真理の教えを忘れること、心の沈みこみ、心の興奮、
これらの過ちが生じたときに対抗手段をとらないこと、
誤った対抗手段をとること、
これらが、瞑想の害となる過ちである。
これらの過ちの特質を明らかに知り、
信・決意・精進・軽安・正念・正智、
そして正しい対抗手段を取ることと、誤った対抗手段をとらないこと
これらの「対抗手段」の優れた特質をよく観察しなさい。
そうして寂止の瞑想に入りなさい。
歓喜・光・無分別を具えた
「寂止」という心の深い安定状態は
すばらしいものである。

しかし、少しの間集中し、心が安らいだという程度の瞑想では
愛著・嫌悪・迷妄の三毒は、弱まることはなく、潜伏しているに過ぎない。
この程度の安楽の瞑想状態を、修行者が良いものと見せかけても
このレベルの達成は、平凡なものであって、あまり良いものではない。

心の安定は、智慧があることとは関係がない。
にもかかわらず、この状態を、輪廻とニルヴァーナを超えた仏陀の境地であると
間違って主張する人たちは、自らの内面をしっかりと観察すべきである。

心を安定させ、サマーディに入ることによって、
さまざまな神通力を成就できると説かれている。
しかし、ただ毎日お腹を満たして、日向ぼっこをし、
努力もせずに、ただこれらを獲得したいという希望的観測に浸るのは
石を絞って油を得ようとしているようなものである。

ああ、なんと悲しいことだ。
以前に人は、自らの心を甘やかして、放縦のままにした。
それによって、かけがえのない人間としての生涯を
無益な、中身のない、世俗的なものの追求に費やしてしまった。
これからは、世俗の喧騒を離れ、瞑想の実践を楽しみなさい。

正しく深い瞑想による歓喜が、身体と心の両方に浸透するならば
その人が何をしても、それは善良なものとなる。
この教えの重要性を理解できたならば
あの名高い仏陀の境地も、遠くはない。

暗闇の中で、縄を蛇と見間違えて恐怖を抱くように、
私たちは、無明という病により、この心身の上に「私」という思いを誤って抱いている。
この大きな過ちの中で、私たちは、
激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの恐怖を体験する。

自我意識は、幻を真実であると執着する。
この執着によって、果てしない輪廻界でのあらゆる経験は
あたかも、夢の経験を真実だと錯覚し、喜びや苦しみを経験するように
過ぎ去っていく。
対象の実相を明智しないのは、愚かである。
実在する、実在する、と思ってずっと執着してきた「私」なるものは
いくら探しても見つからず、空であり、実体がない。
こうした探求によって、
すべての存在するものは、本来的に空であるという
根本的な真実を、明智するのである。

すべては存在しないのに、
地獄で焼かれる苦しみや、神々や人間の安楽さなどは、
幻のように、経験されるのである。
このことによって、欺くことのない「縁起」という
すべての現象の根本を悟る。

あらゆる存在の本性は、空に他ならない。
この鋭い智慧の武器を振り下ろすとき
「自我や世界を実体視する意識」の束縛は、断ち切られるのである。

このような方法は、小乗・大乗かかわらず、
すべての聖者が進んでいかなければならない道であるが、
最近の、多くの愚かな修行者にとっては、非常に難しい道である。

しかしながら、愚かな者たちの中にあって
大海のようにきわめて奥深い根本を
迷乱なく語る者もいる。

無比なる完全な悟りを得た、すばらしい方々
彼らのことを思いながら、
正しく教えを説くすべての善き方々に
歓喜に満ちて、あらゆるものを供養いたします。

確固たる精進と、本質的な智慧によって、
これらの奥深い六つのパーラミターの意義を
明らかに理解し、実践してください。
こうした実践をもって、
個人的解放の達成という頂に
障害なく向かいなさい。

しかし、小乗の修行者のように、
自分だけの至福とニルヴァーナという劣った頂には執着することなく
他者の心の連続体を成熟させることに取り組んでください。
そして、甘露に満ちた慈悲の行為という
終わりなき流れに従って、進みなさい。

智慧と慈悲という両翼をたくみに動かし
輪廻とニルヴァーナの両方を、高く飛び越えてください。
そして、仏陀の法身・報身・変化身という
不死の三身の境地において
自由自在に喜び楽しんでください。

さあ、鳥神ガルーダの王のように、
今ここから、仏陀の三身の境地へ向かって、飛び立ちなさい!

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