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菩提心と至福

勉強会より
「菩提心と至福」

◎修行のポイント――菩提心と放棄

 今日は「菩提心と至福」というテーマで語ってみたいと思います。
 私は修行の経験としては実際に、至福感ですね、非常に強烈なエクスタシーの経験を非常に強い特徴として持っています。この至福の経験について語ると、もうきりがないので、語り尽くせないくらいになってしまうんですが、その中であるとき自分なりに気づいたのが、その至福を生じさせる原因として最も強烈なもの、それが今日のテーマである「菩提心」であるということに気づきました。
 菩提心という言葉――ボーディチッタですね。ボーディチッタっていうのは、実は非常に複雑な意味があります。しかしそれを最も簡単にその土台をいうと、それは他者、つまり自分以外の他者を受け入れる心。あるいは自分以外の他者に心を開くことですね。それが土台になると思います。
 この「自分以外の他者へ心を開く」「他者を受け入れる」という土台をもとに、みなさんもご存知の「四無量心」という心が発達してきます。
 四無量心というのは、まず第一に他者の幸福を願う心。
 そして第二に他者の苦悩を哀れむ心。
 そして第三に他の魂の進化を喜ぶ心。
 そして第四に平等心とか無頓着とかいわれますが、実際はこれは――一、二、三は他者に対しての検討でしたが、四番目は自分自身の苦しみ、あるいは自分自身の喜び、自分自身の良いこと悪いことに対して全く心を動かされない、つまりどうでもいいという心の状態ですね。
 この四無量心を更に土台として、本当の意味での菩提心というのがやってきます。
 菩提心というのを明確に定義すると、
「私は衆生を救いたいが、まだ今の私にはその力はない。よって私はどんなに苦しくても衆生を救うために、私自身が仏陀になろう。」
という強い決意ですね。
 ただ普通は慈悲とか慈愛とか菩提心という言葉で、今言った「他者を受け入れる」とか、「四無量心」とか、あるいは「自分が仏陀になるんだっていう決意」とか、その辺が曖昧に全部ひっくるめられて言われることが多いと思います。
 私の経験で言うと、私はあるとき「トンレン」という瞑想を集中的にやっていたことがあります。このトンレンっていうのはみなさんもご存知かもしれませんが、衆生の苦しみを吸い取り、自分の幸福を衆生に差し出すという瞑想を、呼吸に合わせてひたすら行なうものです。この瞑想をやっているときは、今まで経験したことがないほどの強烈なエクスタシーに包まれました。それは本当に気絶するんじゃないかというぐらいのものすごいエクスタシーでした。
 そしてこれ以外にも様々な経験をするうちに、私はあることに気づきました。それは仏教や、あるいは様々な修行の最も重要なエッセンス、ポイントは、菩提心であるということです。
 物事には必ず、ここは外してはいけないというポイント、つまり中心的な狙いがあります。
 例えばスポーツ。野球のバッターがバットを振る場合、ただ見た目には棒を振り回してるだけなんですが、必ず、こういう持ち方をしなきゃいけないとか、このラインで振り下ろさなきゃいけないとか、必ず外してはいけないポイントというのがあります。
 修行にも、呼吸法とか、あるいは気功とか瞑想とか、あるいは教えを学ぶとか、様々な方法がありますが、そのすべてはこの菩提心、で、もう一つ言うならば、菩提心とエゴの放棄。この二つを外したらそれは修行にならないといってもいいほどのものが、その菩提心とエゴの放棄です。
 ですから、修行をしていて以前よりも他者への慈悲が強まったとか、あるいはエゴが弱まったという場合は、それは修行が進歩していることをあらわしていますし、あるいは逆にかたち上いろんな修行ができるようになってきたとしても、エゴが強まったとか、あるいは慈悲や愛がなくなってしまったという場合は、それは修行が退化してる、修行が逆にマイナスになってることを意味します。
 

◎供養と菩提心

 ところで先程、菩提心が最高に至福を生じさせると言いましたが、より修行を進めていったところ、菩提心以上により強い至福をもたらすものを発見しました。それは「供養」です。
 供養というのは、神や仏陀への供養です。
 しかし、より修行を進めたところ、私が以前、菩提心や慈悲として追い求めていたものと、それから供養の瞑想の心によって得る状態が全く同じだということに気づきました。
 それはなぜならば、仏陀やあるいはヨーガでいうところのバガヴァーン――つまり完全なる神の本質には、もともと完全なる慈悲、完全なる菩提心があるからです。
 だからそこに供養し、完全にそこに溶け込んだときには、もうそもそも慈悲や菩提心の中に自分が没入して、素晴らしい至福を得ることができます。
 この状態は菩提心と、もう一つの側面である「智慧」ですね。この完全なる智慧というのも含んでいます。
 ですから仏陀の本質、あるいは完全なる神の本質には、この完全なる智慧と菩提心があるわけですが、それは同時にわれわれの心の本質にも、それはもともと存在しています。その本来ある絶対的な智慧や絶対的な菩提心に完全に到達するために、相対的な智慧、あるいは相対的な慈悲や菩提心を磨いていくのが、あらゆる修行の目的です。

◎念正智

 ところで今回は『入菩提行論(ボーディチャリヤーヴァターラ)』というインドの経典への説明もリクエストにあったわけですが、この『入菩提行論(ボーディチャリヤーヴァターラ)』というのは、私が非常に好きな仏教の経典です。
 なぜ一番好きかというと、経典っていうのはとらえどころがない内容が多いのですが、この『ボーディチャリヤーヴァターラ』は、さっき言った慈悲と智慧を、日々高めるための、非常に具体的なアドバイスに富んでいるからです。
 その内容は膨大なのですべてを紹介するわけにはいきませんが、今日はほんの少しだけ皆さんの利益になる部分を紹介していきたいと思います。
 その一つは日本語で「念正智」というものですが、もとの言葉では「念」っていうのは「スムリティ」といいますね。これが非常に重要な要素となってきます。
 このスムリティというのも仏教ではいろんな意味があるんですが、『ボーディチャリヤーヴァターラ』の著者のシャンティデーヴァは、念正智を、「自分の心と体の状態を絶えず観察してチェックすること」といってます。もっと具体的にいうならば、まず教えをしっかり学んで、そして自分の心の状態や、あるいは発している言葉や、あるいは実際に行なっている行為が二十四時間、一瞬一瞬、教えからはずれないように監視して、ちょっとでもはずれたらすぐにもとに戻すっていう作業。これをスムリティといいます。どんなに素晴らしい教えを学んだとしても、このスムリティが為されていなければ、その教えは何の役にも立たないし、何の価値もありません。
 そういう意味では、修行において最も重要なポイントは先程、菩提心とエゴの放棄だと言いましたが、実際の具体的な実践における最も重要なものは、このスムリティであるといえます。
 そして最高のスムリティは、四無量心のスムリティということになります。
 それはどういうことかというと、
「私の今の心は四無量心にのっとっているだろうか?」
 あるいは、
「私の心や行動は人々のためになっているのだろうか?」
「エゴを満たしていないだろうか?」
 ――これを二十四時間、一瞬一瞬、自分を観察してチェックし続ける。これが最高のスムリティということになります。
 この方法をもしみなさんが――実際もちろん二十四時間やるのは大変難しいことですが、二十四時間やろうとがんばって明日から――まあ、今日から頑張って努力するならば、おそらく一年後には相当高い達成を為していると思います。
 『ボーディチャリヤーヴァターラ』にはこのスムリティについて細かくさまざまな説明がなされています。

◎自他交換の教え

 今日はもう一つ、少しだけ『ボーディチャリヤーヴァターラ』の特徴的な教えを紹介します。それは、自分と他者の交換という教えです。
 普通の仏教の慈悲の瞑想などでは、まず自分の幸福を願い、そして他者の幸福も願うというかたちになるパターンが多いと思います。しかしシャーンティデーヴァの教えでは、自分と他者を完全に交換します。
 われわれはどんなにいい人でも、どんなに愛に溢れたように見える人でも、完全に解脱していない限りは、潜在意識には醜いエゴがいっぱい潜んでいます。
 最近、日本のスピリチュアリズムなどでは、ワンネスとか、すべては一つとか、自分と他者は変わりはない、一つであるというような教えが流行っています。これは究極的には真実なんですが、先程も言ったように、エゴに満ちたわれわれの心の状態で、自分と他人が同じという境地にいきなり行くのは無理です。
 極端にいえば、エゴの正体というのは、「自分は幸福でありたい。他者は不幸でもいい。他者は自分の幸福のためには苦しんでもいいのだ」――という発想がわれわれの深い意識にあります。
 これをごまかして自分と他人は一つだと言っても効果はないので、シャーンティデーヴァはこの、一方を愛し、一方はどうでもいいと考える、このエゴの働きを逆転させて、他者を非常に愛し、他者の幸福のためには自分は苦しんでもいい、というよりも苦しんだほうがいい、という強烈なエゴの逆転の教えを説いています。
 この教えは大変素晴らしく、実際効果的なこのですが、非常に理解が難しいので、興味のある方はご自分で実際に『ボーディチャリヤーヴァターラ』を読んで研究してみるといいと思います。
 はい。ではこの辺でお話は終わりにして、もし何か質問があったら聞いて終わりにしましょう。

◎菩薩行のポイント

(質問)先生の教えは、自分の修行というよりも、他者を救うという事に重点が置かれているように感じました。
 それとは別に、もう一つ、まずは他者にはかかわらず、自分の修行だけを進めるという道もあると思うのですが、それについてはどうお考えでしょうか?

 それについては、現代において、個人が修行を進めないと他者は救えないっていうのは原則です。
 それは例えるならば、泳げない人には溺れてる人を救えないのと同じで、泳げないのにただ愛があるからといって、溺れてる人のところに飛び込んでも、自分も相手もただ沈んでしまうだけです。
 しかし現代で普通に生きながら修行を進める場合、完璧に個人の修行だけを先にやるというのは不可能です。
 それはすべてを捨ててヒマラヤとかに入って、一切他者と接せず、まず自己を完成させる方法なら可能ですが、日本にいながらそれをやるのは不可能です。
 よってわれわれには菩薩行の方が合っています。
 菩薩行というのは、自分の修行をおろそかにして、他者の救済だけに励むという意味ではありません。
 あまり長くならないように簡潔に言いますと、ポイントは三つあります。
 その一つは正しい教えを学ぶこと。
 二番目が、しっかりとヨーガや瞑想などの修行をすること。
 三番目が日々の実生活における、いろんな人との関わりの中で――先程のスムリティですね。教えを使って教え通りに訓練をすること。
 この三つのポイントをしっかり進めることで、この現世において自分の修行を進め、かつ他者のためになる生き方をすることができます。
 このどれか一つ欠けるだけでも駄目です。
 例えば教えを学び、ヨーガ修行をやっていたとしても、実生活においてさまざまな訓練をしなければ教えは根付きません。例えば瞑想において慈悲を出すことに成功したとしても、本当に自分の嫌なことをしてくれる人と出会ったときに怒りが出てしまうようでは、それは慈悲が達成されたとはいえません。ですから教えや修行によって得た考えや、その境地を実生活においてやってみて、それで失敗したり間違ったりして、また教えや修行に戻って修正してということを繰り返さなければいけません。
 逆に、修行はして、実生活でも訓練しようとしているが、あまり教えを学んでいない場合、これは正しい菩薩の生き方や正しい修行者としての生き方がよく分からないので、間違った実践をしてしまうということになります。
 次に、教えは学んで、実生活でそれを実践しようとしているが、あまりヨーガや瞑想などの修行をしていない場合――これも問題があります。われわれは教えを学んだからといって、それだけではそれを実践することは難しいです。しかしヨーガ修行等によって、気道が通り、気が上昇し、そして多くの瞑想経験をすることによって、以前できなかったことが実生活においてできるようになってきます。
 よってまとめますと、日々正しい教えを学ぶこと、そして日々いろんな修行によって気を通したり、気を上げたり、深い瞑想経験をすること。そして教え通り生きる訓練をすること。この三つをすべてしっかり行うことで、現代においては、自分の修行も、他者へのいい影響も与えられるようになっていくと思います。
 もう一つ今の件に関して言いますと、大乗の菩薩行のメリットというのをもう一つだけ言います。ヨーガにおいても仏教においても、われわれは本来は、全くけがれのない純粋な魂であるといいます。しかしさまざまな輪廻を繰り返すうちに、われわれは心をたくさんけがしてきました。そのけがれを悟りに変えていくのが修行です。
 ここでいうけがれというのは、現象に対する経験からくる誤った認識といえます。
 一度何かに対して誤った認識をして、それを正しい認識に昇華させる。これが悟りです。
 例えば私が今持っている、過去に経験したけがれ、誤った認識をすべて悟りに変えたとき、私は輪廻から解脱します。
 しかしいったん解脱したとしても、この宇宙には様々なタイプのけがれがありますので、別のタイプのけがれにまた私がはまり、輪廻に落ちる可能性もあります。
 よって最終的にはわれわれは、あらゆる宇宙のけがれを経験し、そしてそれをすべてにおいて悟るという状態に達しなければなりません。
 ここに至るには普通のやり方だと、まずけがれた輪廻を経験し、悟り、解脱し、また落っこちて、またけがれて、また悟り、っていうのを繰り返さなければなりません。これには膨大な時間がかかります。
 しかし菩薩行においては、日々の生活において、他者に対して愛を持って接することで、他者の苦しみをまるで自分の苦しみかのように感じ、他者のけがれをまるで自分のけがれであるかのように感じ、それを変えていこうと努力します。
 例えば私が今持っているけがれと、例えば皆さん一人一人の持っているけがれというのは似てるけども、微妙にみんな違います。私が多くの人に対して慈愛を持ち、まるで自分のことのようにみんなのことを考え、みんなの苦しみを解決しようとすることによって、私は本来持っていなかったみなさんのけがれというものを経験し、それを悟りに変えるので、私の中ではまるで何度も何度もニルヴァーナに入り、輪廻に落ち、を繰り返したかのような、大きな悟りを得ることができます。
 よって菩薩行っていうのはものすごいスピードで、先程の――全智というんですが、サルヴァ・ジュニャーナといいますが――完全なる悟りを得ることができる道ということができます。
 しかしこの道を歩く人は、より一層というか、日々のものすごい修行も、もちろんしなければいけません。他者にいい影響を与えて、自分がそれによって生じたけがれを毎日しっかり修行によって落とし、そしてしっかり教えを学び、自分の間違った部分を修正していくっていう作業が為されて初めて、この道は意味を持つことになります。
 ですからまとめますと、皆様にも、日々しっかりと修行し、教えを学び、そして人との交わりにおいては他者に幸福を考えて、自分ができるだけのことをしてあげるという実践を日々行って欲しいと思います。

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