至高者の祝福(19)「至高者へ至る様々な道」
第二章 第14話 至高者へ至る様々な道
主カピラは続けました。
「家庭生活にとどまり続けて、財産や楽しみを求めて働く者、彼もまた主から顔を背けた者なのです。彼の心は欲望に翻弄されたまま、神々を礼拝し、祭祀を実行していくでしょう。
彼は心から神々をあがめることで、死後には天界に生まれ、天の甘露を味わうかもしれません。しかし自分の功徳が尽きるや、彼は再び地上に再生してくるのです。
しかし、至高者に与えられた自分の使命を、感覚的楽しみや財産のためにではなく、この私に捧げるために果たした賢者、
また、執着を持つことのない、非常に清らかなで平安な心の持ち主、
そして修行者の義務に専念し、『私』『私のもの』といった思いを持たず、自己の神聖な使命を果たしてサットヴァに満たされた者、
――彼らは死後には、明るい道を通って、至高者の下へと至るでしょう。
それゆえ、あなたは心からの信仰を抱いて、すべての生き物の心に住まれる、栄光に満ちた至高者にこそ、庇護を求めねばならないのです。
現象界の創造の原因であるブラフマー神、また多くの聖仙たち、そしてヨーガを極めたシッダたちなどは、時が来ると、太初の真我の中に入っていくでしょう。しかし彼らはまだ心の中に、差別感や行為者という思いを少しばかり残すため、次なる宇宙が創造されるときには、再び生まれてくることになるのです。
この世に執着したまま、宗教的儀式の遂行に熱心になる者は、欲望や激情によってその理解力を曇らされ、生死の恐怖を取り払ってくれる至高者には、見向きもしないでしょう。
そしてまるで汚物を食べる豚のように、彼らは甘露のごとき至高者の教えを捨てて、感覚的快楽などの下劣な話題を楽しむのです。
彼らは死後、暗い道を通って、低い霊界に入って行き、その後、再び人間界に生まれてくるでしょう。
それゆえあなたは、主に自分の全存在をかけ、その最高の主をこそあがめなければならないのです。
バクティによって主と結びつくなら、遠からずして、ブラフマンの真理をあらわす離欲と真理を、その人の心に呼び起こしてくれるでしょう。
主は絶対意識そのものであり、ブラフマン、至高の真我、自在神であり、至高者なのです。唯一者である主だけが、主体、客体、行為など、様々な姿をとっておられるのです。
すべてに対する執着の滅尽、それこそが、多くのヨーギーが様々なヨーガによって達成することを願う目的なのです。
ブラフマンとは絶対の意識であり、唯一者で、属性を持たないものです。しかしそれは多種多様な属性を持つ姿であると、間違って認識されてしまうのです。すべての魂も、実はこのブラフマンそのものなのです。
しかしこれらのことは、真理の実践とバクティ、日々のヨーガの実践、離欲、それらによってすべての執着を断ち、心の平安を得たものだけが理解できる真実なのです。
ブラフマンの真の性質を明らかにし、プラクリティと真我の真実を悟ることのできる智慧を、以上のようにあなたに説明しました。
私に向けられたジュニャーナの実践、そして三グナの影響を受けないバクティの実践、そのどちらの道によっても、至高者という同じ目的地に到達するでしょう。
主はただ一者ですが、聖典に認められた多様な道によって、それぞれ異なった姿で認識されるのです。
慈悲行、供養、真理の学習とその実践、カルマ・ヨーガの実践、アシュターンガ・ヨーガの実践、ジュニャーナの実践、バクティの実践、それらいずれの道によっても、私たちは、形を持つ、または形を持たない、自ら輝かれる主に到達することができるのです。
これら私の福音は、不道徳な者、つつしみを知らぬ者、傲慢な者、不品行なもの、偽善者などには、決して語ってはなりません。
さらに、現世的楽しみを追い求める者、家庭に愛着する者、私を信じない者にも、これらを伝えてはいけません。
信ある者、素直な者、他人のあら探しをしない人、他の衆生に親切な人、奉仕に喜びを抱く者、表面的なことを重視しない者、心の平静な者、心の内も外も清浄な者、そしてこの私を愛する者、こういう人たちにこそ、これらを語るべきなのです。」