聖なる懇願
いろいろな質問が出た後で、カシという少年が質問した。彼は12歳くらいで、みなから愛されている利発な少年だった。
「先生、私の運命はどうなっていますか?」
「お前は近いうちに死ぬよ」抗しがたい力で、この言葉が私の唇を突いて出てきた。
この思いがけない言葉は、そこにいた生徒たちにはもちろん、私自身にも大きなショックを与えた。私は心の中で自分の軽率さを深く責めながら、あとはもう質問にも答えず黙り込んでしまった。
学校に帰ると、カシが私の部屋にやってきた。
「もし私が死んだら、どうかまた生まれ変わったときに私を見つけ出して、魂の道案内をしてください」彼は泣きながら嘆願した。
(『「あるヨギの自叙伝」カシの生まれ変わりと再発見』より)
「あるヨギの自叙伝」は、私が今生ヨーガ修行を始めた中学生のころ(1984年ごろ)から、書店でよく見かけていた。そしていまだによく見かける笑! ものすごいロングセラーだ。
日本語版の初版を見ると1983年となっているから、実際にはちょうど私が修行を始める一年前に初版が出版されたらしい(同書の古い邦訳である『ヨガ行者の一生』は1959年に出版されたらしい)。
この本は素晴らしい要素が多く含まれた本だが、なにぶん超常的な話が多いので、一部ではそれらはヨガナンダの作り話だとか誇張だとかいう批判もなされているようだ。
しかし私にとっては、そんなことはどうでもいい。この本では、そのような超常的な話や、あるいは逆に現代人の理性に訴えかけるような表現が多々なされているが、それよりもこの本の核となっている価値ある要素は、バクティヨーガ的な思想、あるいは真理を求める魂の渇仰とそれに応える神の恩寵の表現である。
上にあげたエピソードも、この後間もなくしてヨガナンダの予言通りにカシは亡くなり、そしてヨガナンダは神秘的な力で彼の生まれ変わりを見つけ出したとなっている。
その話が本当だろうが嘘だろうが誇張だろうが、そんなことはどうでもいい(おそらく本当だろうが)。それよりもこのエピソードで私がひきつけられるのは、上にあげた、カシの懇願の箇所だ。
真理と縁のある魂は、神に、ブッダに、そして自らのグルに、過去生においてこのような懇願を無数にしてきている。
あるときは修行者だった過去生において。あるときは神々だった過去生において。またあるときは、道を踏み外し、みじめな過ちの一生を送った過去生において。
あるいは過去世で死ぬ間際に、あるはバルド(死後の中間状態)において、あるいは子宮のなかでまだ過去生の記憶がうっすらと残っているとき、このような懇願を無数にしてきている。
しかし実際にこの世に新たに生まれると、我々はそんなことはすっかり忘れてしまう。深い意識ではもちろん覚えているが、表層意識はこの世のマーヤーに巻き込まれ、偽りの日々を送る。
その懇願が真剣で誠実であれば、至高者は彼のグルとして現れ、必ず彼に様々な導きのサインを送ったり、アプローチをする。しかし多くの場合、それにも気づけずに一生を無駄にする。
潜在意識の気づきによって何とか今生も真理の道に入れた魂も、かつての燃えるような懇願のことは忘れているため、修行や帰依を二次的なものと考え、貴重な縁を無駄にする。
よって、真理と縁のある魂は、このときのカシの懇願のような初心に常に返り、自分の人生の意味を見つめ直さなければならない。
そして、かつてのあなたの懇願に最大限の愛でこたえ、心を尽くしてくださっている至高者やグルの愛や恩寵に感謝し、それに報いようと思わなければならない。
願わくば、聖なる懇願と誓いの中にあるすべての魂が、その神聖なる誓いを成就せんことを。